創業者小山伸洋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 21:11 UTC 版)
代々農家であった家に生まれた小山伸洋は、幼少期より母や祖母に連れられ、畑で過ごすことも多かった。丹波の農業は手作業で手間暇かけて行う工程が多いのが特徴である。そのため、若い頃は農業をおっくうに感じ、会社員として勤務するかたわら、時々農業を手伝う程度であった。ある時、父一夫が始めた自家用野菜の無人市で、小山は知人からなた豆の種をもらい、なた豆を畑で育てて収穫し手作業でお茶に加工してみた。その後、都会の消費者向けになた豆のネット販売を始めてみたところ、なた豆とそのお茶が瞬く間に大反響を呼び、2004年にはテレビ放映をきっかけに電話回線が3日間不通になるほどの状態になる。ところが、お茶にできるなた豆は1本の蔓に10本から良くて15個ほどしかさやがならず、それを煎じ、茶にする工程は大きな労力の割に出来上がる量は少なく、話題を呼んだことでたちまち需要に供給が追い付かない状態となったため、会社務めを辞め事業に専念することとなった。しかし、人気にもかかわらず小山は安易に量産、増産には踏み切らず、自社栽培100%と無農薬・有機栽培にこだわり、小さな会社でしかできない誠実な生産を目指した。無農薬栽培の場合、豆が病気になっても農薬は一切使えず、根から掘り起こし、畑の外へ出すしか方法はない。こうした小山の真摯な態度に共鳴した農家が集い、2001年(平成13年)当初2、3名の仲間で設立したのが「有機豆本舗丹波」であった。その後、口コミを中心に加盟生産者は47軒(2017年現在)にまで増やし、オリジナル種子での生産量を5tにまで引き上げる。加盟に際しては、現役メンバーによる推薦、面接、栽培規約への同意など厳しいステップを経て認めるなど、生産体制を管理している。 その後、出荷と生産量の急激な増加に伴い、小山は未知の分野であった営業をこなし、国内の見本市を始め、中国、香港での展示会や百貨店での試飲会などに出展を繰り返すうちに知名度を獲得、国内の「高級スーパー」などにも商品が並ぶに至る。しかし、小山自身は自家栽培によるオリジナル種での栽培と、有機栽培農法で作った純粋な丹波なた豆以外はブレンドしないというコンセプトを貫き、自分自身がこだわった生産量に限界がある茶を、それを真に必要とする末端消費者にのみ届けたいという姿勢を貫いた。このことが結果的に、消費者からの直接の声を拾い上げることにつながり、コミュニケーションが生まれ、客の声の新しいニーズにこたえる形で様々な新商品が誕生する好循環を生んだ。小山は、六次産業化が進む中、生産者の顔や土地が見えることや、無農薬栽培であることはもはや当然で、さらにプラスアルファとして、消費者の要求に対して、生産者側がいかに応えられるか、そのために消費者とのコミュニケーションを上手にとることが課題との考えに至る。さらに自身の原動力の一つは、会社という組織を農業で形成できたことで、客が増えるに従い自ずと生産量の維持や農家を守ることに責任感が生まれた。このことが商品の品質維持と、消費者の需要を支えていると自ら分析している。
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