写象主義者
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ドゥリトルはイングランドに到着してから間もなく、それまで書いてきた詩をパウンドに見せた。パウンドは既にソーホーのエッフェル塔レストランで他の詩人と会うようになっていた。オールディントンと議論していた詩の概念や原則についてドゥリトルの詩が近いことに印象を受けた。オールディントンとは、自由詩、短歌、および俳句の緊張感や簡潔さ、さらに不必要な言い回し全てを排除することを通じて、当時の詩を改革する計画を共有していた。1912年夏、彼等3人は「最初の写象主義者3人」を宣言し、その原則を次のように決めた。 主語であれ目的語であれ「モノ」を直接扱う 対象の提示に貢献しない言葉は絶対的に使用しない 韻律に関して: 音楽的フレーズの並びで構成し、メトロノームの並びにはしない 同年、パウンドは大英博物館に近いティールームでドゥリトルと会っているときに、彼女の詩に「H.D. 写象主義者」という署名を付けたした。これがドゥリトルの文学人生の大半で、詩人に付いて回るラベルの始まりとなった。しかし、ドゥリトルは様々なときに別の異なる話をしており、その経歴の間では様々な筆名で出版していた。同年、ハリエット・モンローが雑誌「ポエトリー」を創刊し、パウンドに外国語の編集者を務めるよう求めた。10月、パウンドは「写象主義者」という見出しの下に、自身とドゥリトル、オールディントンによる3つの詩を投稿した。オールディントンの詩は11月号に掲載され、ドゥリトルの「方法のヘルメス」、「果樹園」、「警句」と題した詩は1913年1月号に掲載された。運動としての写象主義は、ドゥリトルを主要な提唱者として始められた。 写象主義者集団の初期モデルは日本から得ていた。ドゥリトルはリチャード・オールディントンや学芸員で詩人のローレンス・ビニヨンと共に専ら大英博物館の印刷室をしばしば訪れ、日本の伝統的な詩を取り込んだ錦絵の刷り絵を観察した。しかし、ドゥリトルはギリシャ古典文学、特にサッポーの詩を読むことから詩を作る方法も得ていた。この関心についてはオールディントンやパウンドとも共有し、各人がギリシャ詩人の作品の模索品を制作した。1915年、ドゥリトルとオールディントンは、ギリシャとラテンの古典から翻訳したものの小冊子、「詩人の翻訳シリーズ」を始めた。ドゥリトルはエウリピデスの戯曲を翻訳し、1916年には『アウリスのイピゲネイア』のコーラスの翻訳を出版し、1919年には『アウリスのイピゲネイア』と『ヒッポリュトス』のコーラスの翻訳、1927年には『煮え切らないヒッポリュトス』というヒッポリュトスの翻案、1931年には『バッコスの信女』と『ヘカベ』のコーラスの翻訳、1937年には『イオン』の抄訳である『エウリピデスのイオン』を出版した。 ドゥリトルは、1917年にアンソロジーの『写象主義の詩人』の最終版発行まで、グループとの関わりを続けた。1915年のアンソロジーでは、ドゥリトルとオールディントンが編集作業の大半を行った。オールディントンの担当した『写象主義者アンソロジー1930年』にもドゥリトルの作品が掲載された。1930年代末までの全ての詩が写象主義のモードで書かれており、言語の予備、古典的で厳粛な純正さを利用していた。この執筆スタイルに批評が無いわけではなかった。1915年5月、「エゴイスト」の写象主義者特集では、詩人で批評家のハロルド・モンローがドゥリトルの初期作品を「ちっぽけな詩」と言い、「想像力の貧困か必要もない過剰な抑制だ」と言っていた。 1915年のアンソロジーに初掲されたドゥリトルの最初期の作品であり良く知られた詩である『オレイアス』(山の精)が初期のスタイルを表している。 Whirl up, sea— Whirl your pointed pines. Splash your great pines On our rocks. Hurl your green over us— Cover us with your pools of fir. 回れ、海よ 先のとがった松を回れ その大きな松に飛沫をあげろ 我々の岩の上で その緑の葉を投げかけろ 針葉樹の塊で我々を覆え
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