写真術取得への道のり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 04:34 UTC 版)
ある日、師の用事である旗本家(一説に薩摩藩下屋敷)に出向くと、オランダ船のもたらした1枚のダゲレオタイプを見せられた。これに驚嘆した蓮杖は、以来写真術を学ぼうと決心し、菫川の許しを得てその門を離れた。しかし、菫川からの恩を忘れないため、「菫」の字が蓮の根を意味することから自分の身長より大きい5尺3寸の唐桑の木で蓮根の形を表した杖を作らせ、これを常に持ち歩いた。そのためいつしか蓮杖と呼ばれるようになり、自身もそう名乗るようになった。また、奥儒者成島司直(幕府の正史『徳川実紀』の編纂者)から、写真術の情報を聞いたのも、写真師を目指すきっかけの一つと言われている。 写真術を学ぶには外国人と近づくのが近道であると、伯父を頼り浦賀奉行の足軽として浦賀平根山台場の御番所警衛係の職を得た。そこで数回にわたってアメリカやロシア船舶の外国人に接したが目的を達することができず、諦めて長崎で学ぼうとした矢先に黒船来航が起こる。日米和親条約で下田が開港すると、郷里の下田で次の機会を狙おうと考え、船で帰省する途中、今度は安政東海地震に遭遇する。どうにか辿り着いた下田は酷い惨状だったが、何とか肉親や縁者と再開することが出来た。菫川には自身の無事を知らせるため、紙の代わりに屋根板に手紙を書き、その板には「逆浪に追われて家も米もなし 楽しみもなし死にたうもなし」と記されていたという。 下田での蓮杖は開国以前からあった、米国船が薪や水、食料などを買い付けるための市場「漂民欠乏所」の足軽として外使への給仕役として勤め、写真術を学ぶ機会を窺った。ここで安政3年(1856年)横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから、ようやく写真術の原理や基本概要を学ぶことが出来た。安政6年(1859年)12月に下田開港場は閉鎖され蓮杖もお役御免になると、菫川の江戸城再建に伴う絵画制作を手伝いに江戸に行く。ここで賃金100両を得るとどういう経緯は不明だが、開港した横浜で雑貨貿易商を営むユダヤ人レイフル・ショイアーの元で働くことになった。ショイヤーの妻アンナは幼い頃から画を好み、蓮杖の日本画を高く評価したため、蓮杖はアンナから西洋画法を学び、蓮杖はアンナに日本画法を教えた。 そのショイアー家にアメリカの写真家ジョン・ウィルソン(蓮杖の記録では「ウンシン」)が寄宿する。彼こそが蓮杖に写真術を授けた人物である。ただし、ウィルソンは同業者が増えるのを嫌い、容易に蓮杖を受け入れなかった。宣教師・S・R・ブラウンの長女・ジュリア・マリア・ブラウン(後のラウダー夫人)がウィルソンから写真術を学ぶようになると、蓮杖はジュリアを通じて写真術を学べるようになるが、薬品の調合や暗室作業の詳細などは解らないことが多かった。特にウィルソンは、コロディオン湿板ネガから印字紙へプリントする技術を故意に教えなかったと思われ、蓮杖は大変苦労することになる。文久元年末(1862年1月末)にウィルソンは離日するが、写真機材や薬品と蓮杖が描いた日本の景色風俗のパノラマ画86枚と交換し、翌年ウィルソンはロンドンでパノラマ画の展示会を開いている。ウィルソンの写真機材を得た蓮杖は、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究に没頭し、苦労の末どうにか鮮明な画像を得るのに成功した。
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