再演をめざして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 05:13 UTC 版)
須賀田の姪・黒澤陽子は、須賀田の楽譜を神奈川フィルの事務局に言付けた。当時の神奈川フィル事務局長・鈴木省二は、その時の事をこう振り返る じつは年に数度くらい、"これは傑作だからぜひ、おたくのオーケストラで演奏してほしい"なんていう依頼が舞い込むのです。でもそのほとんどが親類が書いたとか、自慢の息子の傑作、といった類いのもので、須賀田礒太郎の楽譜が最初に持ち込まれた時も「ああまたその類いか」と正直思いました。しかし、実際に交響詩「横浜」の譜面を見て驚きました。西洋音楽の情報が今日のように十分伝わっていたとは思えないあの時期に、これほどの作曲技法を収得し、自分の音楽として仕上げている。とても戦前の作品とは信じられませんでした。 神奈川フィルはただちに須賀田の管弦楽作品のコンサートの開催を決定した。 【タイトル】音楽遺産発掘、須賀田礒太郎の世界 (仮称)【主旨】横浜市出身で、戦後疎開先の栃木県田沼町で音楽振興に尽力した作曲家・須賀田礒太郎の肉筆楽譜が、死後47年振りに遺品から発見された。22曲の肉筆楽譜などの中には、管弦楽、室内楽、歌曲、合唱曲などの、極めて芸術性の高い作品のスコアもあり、田沼町教育委員会では、文化遺産としての保存を検討する傍ら、遺作の演奏の可能性について模索していると聞く。作品には交響詩「横浜」という大作もあり、神奈川フィルハーモニー管弦楽団には、1年前に遺族を通じて、情報の提供と協力の依頼が来た。当団では、須賀田氏の作品を分析、発見された作品が日本の音楽史に与える重要性について慎重に検討した。その結果、これらの作品を風化させることなく、無名の天才の音楽を再現させることは、極めて意義のある事業である、という結論に至った。他の作品の分析なども必要なため、演奏会は平成14年度末に実施することとし、現在その準備を行なっているが、当団としては単に作品を紹介するだけでなく、須賀田氏の人物像にも焦点を当て、横浜市や田沼町など、ゆかりのある関係箇所にもヒヤリングを行いながら、歴史に埋没した須賀田氏の生き方を探ってみたいと考えている。 やがて、このコンサートに向け強力な助っ人が現れた。神奈川フィルの事務局に顔を見せたのは音楽評論家の片山杜秀であった。片山はただちに田沼町に飛び、町立図書館に移された須賀田の楽譜の全てに丹念に目を通し、その内容に付いて詳細な報告書を完成、コンサートの企画・選曲に力を注いだ。そしてコンサートのプログラムの解説の執筆、当日のレクチャーも担当することとなった。コンサートの指揮者には、数多くの邦人作品演奏の経験を持つ小松一彦が選ばれた。2002年2月9日、神奈川県立音楽堂において神奈川フィル「須賀田礒太郎の世界」コンサートが開催された。プログラムは次の通り。交響的序曲 (1939)、双龍交遊之舞 (1940)、東洋組曲「沙漠の情景」(1941)、交響詩「横浜」(1932) この演奏会を聴いた作曲家・池辺晋一郎は、その感想を次のように記している。 この日演奏された一曲目は「交響的序曲」(1939)。管楽器群がクレッシェンドしつつ和音を奏する形が斬新。次の「双龍交遊之舞」(1940)は雅楽に基づく意欲的な作品。「東洋組曲 〈沙漠の情景〉」(1941)は当時の時局を反映したエキゾチックな曲で、ホイッスルまで駆使したオーケストレーションは華麗だ。とりわけ興味深かったのは四曲めの「交響詩〈横浜〉」。二部から成る大作だが、1932年、つまり最初期の、やや習作的なものだ。ストラヴィンスキーの「火の鳥」や「春の祭典」、またラヴェルの「ダフニスとクロエ」などにそっくりのフレーズが顔をのぞかせる。あの当時、このような新しい音楽の情報に精通し、模倣的とはいえ「書いた」ことには驚きを禁じ得ない。さらに、弦楽器のコル・レーニョや、チェレスタによる旋律など、実験的な精神にも満ちている。これは大した作曲家だぞ・・・。僕はうなった 会場には田沼町からチャーター・バスで駆けつけた、須賀田と関わった経験を持つ人々の姿があった。終演後オーケストラのメンバー一人一人に「ありがとうございました」と声をかける彼らの姿が見られた。中には「今日の演奏を先生ご自身に聞かせたかった」と、涙ながらに語る人もいたという。
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