共楽館の建設と建築上の特徴
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日立鉱山精錬部門の中心地である大雄院地区に計画された劇場建設は、現在残されている記録から1916年(大正5年)5月13日着工と考えられる。この劇場は建設開始時は大雄院劇場と呼ばれていた。建設担当者が誰であったのかは不明であるが、当時の新聞では鉱山技師が東京の帝国劇場、歌舞伎座などの劇場を視察した上で設計したものと報道された。実際、共楽館の設計に最も大きな影響を与えたのは1911年(明治44年)にリニューアルされた歌舞伎座であると考えられる。同年開場した洋風建築の帝国劇場とは対照的に、歌舞伎座は千鳥破風を持つ和風の大屋根を掛け、外観が和風建築としてリニューアルされた。共楽館も建物全体に和風の大屋根を被せており、正面には千鳥破風をしつらえている。 なお、劇場建設が開始された新町は、日立鉱山発足前は宮田川流域の谷間の水田地帯で、戸数4、5軒の農家があったのみであったが、日立鉱山の発展に伴い、労働者たちを顧客とする新町商店街が形成されていった。共楽館が完成した頃には共楽館の周辺には料理店や酒屋が並び、当時の日立で最も賑わう盛り場となっていた。 1917年(大正6年)1月の日立鉱山工作課の事業報告によれば大雄院劇場の工事進行状況は98パーセントとなっており、すでに完成間近となっていたことがわかる。劇場の開場予定は紀元節の2月11日とされ、予定通り1917年(大正6年)2月11日に劇場の杮落としが行われる。同年4月に「共に楽しむ」からその名を取って共楽館と名づけられた。 完成した劇場の総工費は先述のように約35,000円。建物は木造二階建てで左右対称であり、正面の幅は約28.8メートル、奥行きは約38.7メートル、高さは約16.6メートルであり、建築面積は338坪であった。和風のトタンの大屋根を掛け、正面には千鳥破風をしつらえた外観は基本的に和風建築であるが、2階部分の外周には西洋木造建築の手法であるハーフティンバー様式が見られるなど、和風の中にも洋風を融合させた面もあった。一方、屋根の構造である小屋組は洋小屋トラス組となっており、木組みには当時の和小屋では使用されなかった分厚い鉄板とボルトによる金物接合を採用するなど、西洋建築の技法が用いられていた。また階段室や玄関が当時の建物としては大ぶりに作られており、屋根裏に排気口が多く設けられているという特徴もある。全体的に余裕がある大ぶりな設計と屋根裏に排気口が多い点は工場建築に類似しており、建物の設計者がいわゆる建築家ではなくて鉱山技師であることを示していると考えられる。なお、共楽館にはスラグを原料としたカラミレンガが使用されている。 建物内部の構造は、1階のコンクリート製の土間には8人掛けの畳付きの長椅子が設置され、2階部分は全て桟敷席となっていた。現存する劇場で本格的な椅子席が設置されたと確実にわかっているのは1917年(大正6年)完成の共楽館が日本でも最古の例である。これは単に歌舞伎などの舞台芸術ばかりではなく、映画を含めた多種多様な芸能の上演に使用することをもくろんだからと考えられる。舞台に向かって左側には花道があり、必要に応じて右側にも仮設の花道を設けることが出来た。また左側の花道も取り外しが可能となっており、イベントによっては花道を取り外してその場所を厚板で塞ぎ、椅子を並べることもあった。そして1階部分の椅子席自体も取り外しが可能であり、土間の状態で使用することも出来た。定員は980名とされたが、約4,000名もの入場者を集めたこともあった。 舞台には、2ヵ所に役者がせり上がる時に使用する揚げ板が付けられた直径約9.7メートルの回り舞台があり、下座音楽の演奏者が詰める囃子場、義太夫のための太夫座があった。また役者の楽屋に相当する化粧室が5部屋、その他、小道具置き場、かつら室、衣装室、風呂場が完備されていて、主として歌舞伎の上演を念頭に置いた設計がなされていた。
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