共楽館の復活運動
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武道館に改装された共楽館であるが、改装後まもなく日立鉱山関係者を中心に、元の劇場、芝居小屋として復活を希望する声が上がり始めた。しかし前述のように1960年代半ば以降、全国の劇場、芝居小屋は冬の時代を迎えており、松竹や東宝などの大資本による大都市部の劇場を除き、劇場、芝居小屋としての活動を続けていけたのは福岡県飯塚市の嘉穂劇場のみとなった。その中で武道館に改装されて建物自体は残った共楽館と同様に、映画館から事務所となって建物は残った内子座のように、転用等をされながら建物は残る例もあったが、多くの劇場、芝居小屋は取り壊されていく。日立鉱山においても本山地区の本山劇場は、1981年(昭和56年)9月30日の日立鉱山閉山式の会場となったのを最後に取り壊された。結局かつて鉱山の福利厚生施設として建設された劇場、芝居小屋で建物が残ったのは共楽館以外では小坂鉱山の康楽館のみであり、鉱山当局が作ったもの以外の鉱業関連地域に建設された劇場、芝居小屋に範囲を広げてみても、共楽館、康楽館と筑豊炭田地区の嘉穂劇場の3カ所しか残らなかった。 1980年代に入ると、受難続きであった劇場、芝居小屋に対する関心が高まり始めた。これは1980年代以前に各地で建設が進んだ公立の文化施設はいわば多目的ホールであって、多種多様な舞台芸術それぞれにとって必ずしも満足できる内容のものではなかったため、量的には需要を満たすようになったものの、質的な面での不満が次第に高まってきたことが背景として挙げられる。この不満は劇場に対する関心の高まりに繋がり、やがて古い劇場、芝居小屋にも注目が集まるようになっていった。そして1970年(昭和45年)に重要文化財に指定され、1976年(昭和51年)に移築修復が行われた香川県琴平町の旧金毘羅大芝居が大きな注目を集めたことと、各地の古い町並みが重要伝統的建造物群保存地区として選定されるようになり、町並みの中の古い劇場、芝居小屋にも関心が持たれるようになったこともこの流れを加速させる要因となった。 1980年代には先述の旧金毘羅大芝居で歌舞伎の興行が復活し、内子座、康楽館、八千代座が復活を遂げた。そしてもとは日立鉱山の劇場であった日立武道館でも、劇場としての復活を求める声が高まってきた。1993年(平成5年)2月には「共楽館を考える集い」が結成され、全国各地の市民団体と連携しながら劇場、芝居小屋の復元運動に取り組み、更に共楽館の復元と活用を求める署名活動、講演会の開催、広報誌発行などを行っていった。このように1990年代に入って高まってきた共楽館の復活運動に対して、日立市側も1997年(平成9年)の基本計画内で共楽館の文化的活用について言及した。このような中、共楽館は地域で活用され続けている貴重な劇場建築であることが評価され、1999年(平成11年)7月8日に旧共楽館(日立武道館)として国の登録有形文化財に登録される。 しかし日立市の財政悪化のため、共楽館の文化的活用は見送られていく。劇場、芝居小屋としての復活が遠くなる中で、2000年代に入ると共楽館を考える集いの運動も、もともとの劇場、芝居小屋の復元運動から産業遺産保存活用による町おこし的な運動が中心となっていく。このように町おこし的な活動に活動の重点が移っていく中で、共楽館を考える集いは2004年(平成16年)12月にNPO法人となった。
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