全国大会の上位へ
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「高橋正弘 (サッカー指導者)」の記事における「全国大会の上位へ」の解説
1979年(昭和54年)の第57回選手権では、大宮サッカー場にてホームチームである古豪の浦和市立南高等学校を破ってベスト8へ進出、部員たちは優勝のように喜び合った。その後、高橋の現役時代に敗れた徳島商を準々決勝で破り、国立霞ヶ丘陸上競技場へ会場を移し、準決勝で東京都の本郷高等学校を下し、ついに決勝に進出した。決勝の相手は練習試合で1勝1敗の成績である茨城県立古河第一高等学校であり、勝つ自信はあったと言うが、1対2で敗れて大会成績は準優勝であった。高橋はその敗因を、試合中の部員たちの集中力を欠いたことに加え、試合直前に取材や祝いの電話が殺到し、部員たちと話し合いの時間が持てなかったためと後に悔いている。 日本一の座は掴めなかったものの、地元の室蘭は全国準優勝の報せに熱狂した。凱旋パレードでは沿道に「祝・準優勝」の横断幕が張られ、高橋たちは市民総出の大歓迎を受け、割れんばかりの拍手、紙吹雪、紙テープの大洪水を浴びた。その様子は、室蘭市の広報が異例の号外で「歓迎の人波は2万人におよび、駅前から八幡宮に登る階段や近くの歩道橋の上まで、また中央町界隈の繁華街もかつてない人出が沿道を埋め尽くし」と報じるほどだった。 それまでは本州のチームは室蘭大谷と当たると内心喜んでいたが、この準優勝で、室蘭大谷は逆に他校から恐れられるようになった。高橋はこれが一番嬉しいことで、1979年は自分の人生で記念すべき年になったという。 もっとも1980年(昭和55年)以降は、十分な実力を持った部員を揃えていながら、また全国大会での初戦敗退が続いた。そんな中でも全国の高校サッカー監督たちが高橋の支えとなり、一同は高橋との交友を通じ、高橋にチーム作りのノウハウを積極的に伝授した。1983年(昭和58年)、そうした監督たち一同の推薦により、日本高校選抜サッカーチームの監督としてオランダ、ブルガリアに遠征した。成果は通算成績9勝1引き分けの快挙であり、高橋のサッカー人生の彩りとなった。また室蘭大谷と日本リーグの日産自動車との交流試合を開催したほか、1983年から高橋自身の提唱により高校、大学、社会人が同じ土俵で戦う知事杯全道サッカー選手権大会に出場と、様々な試みを通じ、監督として常に勉強をし続けていた。 1987年(昭和62年)の第65回選手権では、先述の野田知や財前恵一ら、後に高橋が「最強の陣容」と振り返る部員たちで臨んだ。準々決勝では、これも後にプロで活躍する黒崎久志や根岸誠一らを擁する宇都宮学園高等学校との試合となり、試合前から注目を集めた。試合は延長、再延長でも勝敗がつかず、PK戦でも両イレブン全員がシュートを決めても1本も外すことがなく、一向に勝負がつかなかった。室蘭大谷のコーチは「やるだけやった」と部員たちを労わったものの、高橋は「ここまできて負けられるか」と最後まで発破をかけ、チーム一丸で勝利への執着力を剥き出しにした。そして宇都宮の15人目である根岸誠一のシュートを室蘭大谷のゴールキーパーが阻んだことで、室蘭大谷が勝利した(根岸誠一#高校時代も参照)。これは後に「サッカー史に残る激闘」「伝説のPK戦」とも呼ばれる一戦となり、テレビでも「過去の大会の名勝負」として取り上げられた。先述の京谷和幸も、室蘭大谷に進学した思い出を後に「入学する前年の選手権で財前さんたちが出場した宇都宮学園とのPK戦15-14の勝利を見せられたら、もう行くしかないじゃないですか!」と語っている。準決勝では先述の小嶺忠敏率いるサッカーの名門・長崎県立国見高等学校に敗れ、大会成績はベスト4で終わったものの、この年に準優勝に終わった国見が翌年に初優勝を遂げ、高橋は感慨があったという。
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