光緖31年(1905年)制式
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「軍服 (中華民国)」の記事における「光緖31年(1905年)制式」の解説
1903年3月から完全な洋装の導入を模索し、1904年9月に制定された《練兵處奏定陸軍營制餉章》中にて「軍服制略」の一項を設置、「身体の形に合い、動きやすいものとしなければならない」と定義された。同年12月、「另定新軍官制事宜」にて、八旗官員の制度を改め、階級を西洋式の三等九級制とした。 1905年3月の完全西洋式の階級と編成に合わせて同月から試製洋装を導入し、調整を経て翌月1905年4月ごろから正式導入された。 常装は、試製品では日本海軍の第一種のように前合わせがホック式の上衣で左右に各3つポケットがあるものであったが、正式導入では代わって日本陸軍の明治37年戦時服や、天津駐留の帝政ドイツ東アジア遠征軍団で使用された夏季野戦服の影響を受けたと思われる簡素なものへと変更された。布地は冬は藍色上衣の前あわせのボタンは露出、夏はカーキ色で上衣の前あわせが隠しボタンとなっている。階級は日本軍をベースとしており、袖に配された黒のパイピングとボタンで表された。 礼服は紺色で、上着はシングルブレストだが、日本やドイツ、ロシアのフロックコートダブルブレストの2種類が存在した。いずれもポケットはなく、直径2cmのボタンが7個。17㎝のサイドスリットが入る。肩章は長さ10.5cm、幅4.5cm、厚さ0.4cm。襟には宝珠を持つ竜が配された。宝珠の色は上等官は赤、中等官は青、次等官は白。ズボンは黒で上等官は幅3cmの太線2本の間に0.2cm細線が入り、間隔は各0.3cm、中等官は3cmの太線が0.3cm間隔で2本、次等官は4.5cmの太線1本。 操帽(制帽)は調整期はケピ帽であったが、正式導入ではドイツ式の官帽に変更された。制帽は常装と同色の夏季・冬季の2種類があるが、礼装のものを平時に被る写真も多い。従来の清式のもの(寒帽)を被ることもある。将校の帽章は、二匹の龍が中央の宝玉を囲む意匠となっている。憲兵のみ帽章が異なる。 下士官兵の階級は礼装では袖口のパイピング、常服では上腕部にV字型の徽章。肩章には所属部隊を表記する。帽章は一匹の竜が前面を向いたデザイン。 試製常装(1906年) 冬季常装各種 騎兵正軍校(大尉に相当、楊振鴻(中国語版)、1907年ごろ) 防寒用の耳当てを使用。王金銘(中国語版) 夏季常装の軍官ら。李曰垓、羅佩金、蔡鍔、殷承瓛、李烈鈞(1911年) 夏季常装の副参領(中佐に相当)。孫伝芳 冬季常装着用の第3鎮軍官。1908年ごろ 外套着用の軍官 竜済光。 常装の規定外の改造例。帽章が規定と異なる。施従雲(中国語版) 常装の規定外の改造例。礼装用肩章とボタンを付けている。廕昌 常装の規定外の改造例。礼装用肩章と飾緒を付けているほか、帽子をロシア式の仕立てにしている。楊纘緒(中国語版) 常装の規定外の改造例。礼装用肩章とボタン、飾緒を付け、更に袖章を付けていない。程経邦(中国語版) 演習中の砲兵(1910年) 行進する歩兵ら 試製礼装(1905年) 礼装に寒帽の正都統。着色されているが、実際の色はもっと暗い。袁世凱。 礼装実物。黎元洪の着用していたもの。 礼装の副都統。何宗蓮 礼装の副参領(中佐に相当)。孫道仁。 同じく礼装。全員短袴をはいている。 礼装の規定外の改造例。載濤(中国語版) 礼装の規定外の改造例。海軍軍官(エポレットの人物)を除く陸軍全員が規定外のフロックコート型を着用しており、このような仕様が広く流行していたことが伺える(1907年ごろ)
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