光緒帝毒殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 14:00 UTC 版)
2003年から2008年に掛けて行われた法医学者などによる光緒帝の遺体の科学分析の結果、遺体の頭髪から経口致死量を上回る残留砒素(推定投与量ではなく残留砒素が致死量を超過)が検出され、国家清史委員会は光緒帝が毒殺されたと結論づけた。 光緒帝のカルテ(病案)は1000件を超えているが、時期の解る記録のうち1898年9月の戊戌政変以前は76件で、900件前後は瀛台幽閉以後に集中している。また、光緒帝崩御前年の1907年7-8月、新御医に力釣が就き一人で診ていた期間は10年の中で唯一快方していた記録が見られる、9月以降に他の御医が光緒帝へ関わり始めると容態は元へ戻り、力釣も数ヶ月でお役御免となっている。 誰が光緒帝を殺害したかについては様々な議論がある。西太后殺害説、袁世凱殺害説、李蓮英殺害説、崔玉貴殺害説などが挙がっているが、中国第一歴史档案館編研部主任の李国栄によると、西太后、袁世凱、李蓮英のいずれにも可能性があるという。 西太后犯人説をとる『崇陵伝信録』では、死期が近づいた西太后が光緒帝が自分よりも長生きしないように毒殺したとしている。李蓮英犯人説をとる徳齢の『瀛台泣血記』では西太后の威を借りて横暴を極めた宦官の李蓮英が報復を受けることを恐れて毒殺したとしている。袁世凱犯人説をとる溥儀の『わが半生』では、戊戌政変で光緒帝を裏切った袁世凱が光緒帝が復権して報復を受けることを恐れて毒殺したとしている。 上に挙げた説には、いずれも決定的な証拠が無いため、犯人は特定されておらず、真相は不明のままである。
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