光緒新政における新軍改革
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1899年、栄禄の建議により、北洋各軍は武衛軍へと再編された。武衛軍は左・右・前・後・中の5軍より編成されており、新建陸軍は武衛右軍へと改編、同時に定員も七千人から一万人に拡充された。間もなく勃発した義和団の乱では、武衛右軍は山東省に赴き鎮圧に尽力する一方、他の4軍とは異なり直接列強との戦争に参加しなかったためほとんど無傷であった。武衛右軍はやがて武衛軍の主力となり、同年には歩兵隊、騎兵隊、砲兵隊二十営を拡充した。1902年、直隷の義和団残党の鎮圧を終えると、武衛右軍は「北洋常備軍」と改称された。また、同年には一軍二鎮の設置を見越し、北洋常備左鎮が設置された。 一方、それまで革新的な改革を嫌っていた清朝も、義和団の乱による敗北をきっかけとして様々な政治改革に乗り出すようになる。軍制改革もその一環で、1903年(光緒29年)10月には総理練兵所および督練公所を各省に設置して、新軍の訓練を監督させる一方で、従来の清朝の正規軍である「防軍」「練軍」「緑営」といった旧来の軍隊を大幅に削減して、残った若干名を後備や憲兵などに改編させた。清朝政府は袁世凱管轄の北洋新軍を中央の軍、各省の新軍を地方軍とすることを意図し、清朝が滅亡した時点までに、全国に新軍を十六鎮と十六個混成協(鎮・協は作戦単位)設置したが、中でも袁世凱が管轄する北洋六鎮(直隷、山東、満州を管轄)は錬度・装備共にもっとも優れていた。また、これとは別に1909年(宣統元年)、皇帝および王族を警護する近衛師団にあたる「禁衛軍」を編成した。禁衛軍は通常の軍隊とは異なる独自の軍服が採用され、新軍の中でもとりわけエリート部隊として認識されていた。
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