兄弟団の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:22 UTC 版)
「アッシジのフランチェスコ」の記事における「兄弟団の発展」の解説
ローマから帰って、兄弟たちはしばらくアッシジ郊外リボトルトの小屋に住んで病人の世話や肉体労働、そして托鉢と説教を行った。その後にポルチウンクラに戻って、小聖堂の周囲に小屋を建てて住むようになった。無所有を貫いたフランチェスコはポルチウンクラの小聖堂を、毎年家賃として一かごの魚を送ることでベネディクト会から借り受けた。兄弟団はここを拠点にして規模が拡大していく。兄弟団に加わった人々は前述したように二人一組で宣教の旅に出たが、毎年の聖霊降臨祭にはポルチウンクラに戻って総会を開くのが慣習となった。1217年には、国外への宣教が開始され、最初は苦労するものの、ヨーロッパ中から入会希望者が集まるようになっていく。1219年の総会には3000人あるいは5000人が集まったという史料もある。 こうした兄弟団の発展をサポートしたのは、オスチア大司教のウゴリーノ枢機卿(後のグレゴリウス9世)である。彼は兄弟団に助言を与え、後見人として兄弟団を庇護した。 フランチェスコは徐々に人々からの崇敬を集めるようになっていった。中世に生きた多くの聖人と同様に彼にまつわる奇跡譚が語られるようになる。有名なものとして、鳥に向かって説教を行った話や、狼を説得して、噛み付くのはやめるという同意をとりつけたなどの話がある。この他にフランチェスコは、うさぎ、魚、水鳥、蝉、コウロギを相手に話をしたと伝えられている。 女性も、この新しい運動に加わった。アッシジの貴族の娘であるキアラ(クララ)は、フランチェスコの考えに共鳴して、1212年の枝の主日の夜にもう一人の女性を伴って家を出た。フランチェスコによる剃髪の後、近隣の女子修道院に身を寄せて清貧の生活を送りながら手仕事で生計を立て病人などへの奉仕活動に身を捧げた。現在クララ会と呼ばれているフランシスコ会第二会(女子修道会)の開始である。やがて司教グイドによってサン・ダミアノ教会が提供されると、そこを拠点として「貧しき貴婦人たち」は兄弟団と共に発展していくことになる。 多くの伝記は、1215年の第4ラテラノ公会議にフランチェスコが出席し、ドミニコ会を創始するドミニコと出会ったとしているが、この話には根拠が無い。 フランチェスコはイスラーム世界への宣教にも意欲をもっていた。1209年から1212年のどこかで船に乗ってシリアに向かったが、船が難破してダルマチア沿岸に漂着して断念した。1212年から1214年のどこかには殉教覚悟でモロッコを目指したが、途中のスペインで病を得て引き返す。1219年には、ついに第5次十字軍が駐留するエジプトに渡った。彼はまず、ダミエッタの町を包囲していた十字軍(ダミエッタ包囲戦)に対して戦闘の中止を呼びかけたが、十字軍の行為に幻滅を覚えた。その後、供を一人連れただけでイスラーム陣営に乗り込んでスルタンのメレク・アル=カーミルと会見しキリスト教への改宗を迫った。スルタンは改宗には応じなかったものの、フランチェスコは丁重にもてなされたという。この席でフランチェスコはイスラーム法学者との対決を望み、神明裁判を持ちかけたとされている。すなわち、燃え盛る炎の中に飛び込んでどちらに神の庇護があるかを競おうというのである。フランチェスコ伝の中のこの有名なエピソードは近代以降は史実に根拠を持たない伝説と考えられていた。しかし、カイロに保存されているある墓碑銘の文面によれば、その時期にイスラム法学者がキリスト教修道士と有名な試みを行ったとされており、この伝説も再考されつつある。 スルタンによって十字軍陣営に送り届けられたフランチェスコは、エルサレムなどの聖地巡礼を行っていたが、イタリアから急を告げる使者がやってきてイタリアに戻ることになった。
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