仙右衛門氏の功績(伊方町誌)
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「古田仙右衛門」の記事における「仙右衛門氏の功績(伊方町誌)」の解説
寛政4年(1792年)二見浦加周に生まれた。だれも住んでいなかった大成の浜が、漁場として将来性があることに着目して、漁場の開拓を人々に相談したが、誰も相手にしなかった。そこでひとりでこの難事業を計画し、三年の間、毎日大成の干潮・風向・海深・潮流などを調査して、天保9年(1832年)に大成に移住し、人夫を雇い波止を築き始めた。しかし、風波のため何回となく崩れ、ついに人夫も逃げだし、ひとりで石を運び、私財のほとんどを使い果たして、その日の食事にも困るほどだったが、くじけず頑張り通して、2年4カ月後に130メートルの大波止と、36メートルの小波止を造りあげた。この工事完成によって漁場も開かれ、多くの人が住みつくようになった。現在、波止のそばに頌徳碑が建てられている。
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仙右衛門氏の功績(町見郷土誌)
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「古田仙右衛門」の記事における「仙右衛門氏の功績(町見郷土誌)」の解説
大成部落の開拓者として忘れることのできない恩人を古田仙右衛門氏とする。二見浦から出でて他の部落を開拓した人は他にある。加周を開いたのも、鳥津を開いたのもみな二見浦の人であった。けれどもその開拓にあたって其の地の将来をみとをし、その地の生業の動かすべからざる基礎をきづき、この為に私財をことごとく失ってしかもその功一代にあらはるることなく、年と共に忘れられんとして行くことはこの仙右衛門氏の如きはない。後にいたりて清水議員有志等村會にはかつてその功績を一片の碑にとどめたけれども多く知るものがない、仙右衛門氏の心中にはもとよりその功労を人にみとめられんなどといふさもしきものは無かったであらう。といってその労を埋めてしまうにはあまりにおしい。部落人の中にも、また多くの人の中にも、あれは自分一個のもおけの為にやった仕事であるとするものが多いけれども次の事を知るものは決してその然らざるを見るであらう。仙右衛門氏は二見の人、仙蔵ともよぶ、さきには役つきで有ったといはれているがその何の役であったかを知らない。かねてより大成の漁場として立派にたちゆく事に眼をつけていた。大きな網代があり、魚族が非常に多いことをみていた、しかも海岸は犬牙錯綜して浪のあることにまかせ、四方に通ずる路といふ路なく、嶮阻であって誰もこれを開いて漁場となすのみならず、海を利用して各種の産業を起こさうとする者がいないのを慨し、どうにかして之を敢行してやうとして、他人にははかるけれども、その荒波の中に波止をきづいたとて到底すて石をするばかりで物にはなるものでないと、あざわらふ者が多かった。よって獨り之をやらうと決心した。それからは、毎日雨の日も風の日も、終日嶺に上りて上手の干潮、風向きを冊子、下つては海の深さ、潮流のはやさをしたしく嶮し、気狂とあざみ笑はれた。されどももとより意に介する所なく、三年の後大成に下り、今の曾孫の居宅(※昭和7年当時)とするところに家をかまへた。その時には誰もすんで居なかったといふ、そこへ瓦ぶきの家をたてたといひ傳へて居る。 大小の波止をきづき出した、きづきはじめたのは天保9年8月、同じ11年の12月にともかく竣成を見たのであるが、きづきあげては波にくづされ、くづされてはまたつきなほし、幾度もいくどもくづされるので人夫も遂には逃げ出し一人にげ二人にげして仙右衛門氏自ら一人土砂をはこび石をうごかしたといふ。或は労賃を増して人夫を慰撫しはげますなど、これらの為にその私有の財産つかひはたし、自らはいらふに飯もなく大豆もとぼしくなって、それを粥にしてすすりわづかに口を糊したことがあったといふ、外には怒罵と嘲笑あり、内には妻子もその志を汲まず、をのが不足を、ほしいままに訴ったへて夫の気をくぢく、病みほうけ、飢口つかれてもその志をあらためず、ついに事業はなしとげたが、この上の困難はさらに加わってゆく。仕遂げた波止が大の方が幅六間余、長さ七十五間、小なる方が幅六間余、長さ二十間、干潮といへども波止の中で八尺の深さをたもって居た。明治のはじめころは千石、二千石の船がいくそうとなく航行して居た。かくてどうにか波止をきづき上げることが出来た、そこで網をねがひ出たので有る。ところが大成には人がない。足成の住人をかたどりて人数をこしらへあげ、いはし網を願出たのである。むかしは何の種類の商業もことには網と酒屋は庄屋のいとなみよりも他になかった。そこで平民が庄屋以上の事をしたといふので、ことごtこうに庄屋の反感をかひ事業の上にいふべからざる困難と支障をきたした。これらについてのくはしい物語りはつたはらない。波止はきづき、網は出来たけれども、内家庭の困窮はますますくわはり、誰も同情するものはない。かうして外には船の出入も多く、住む人も次第に増えてきて、部落は次第にかたちつくられてき、各その業に案ずるが出来るようになったけれども、仙右衛門氏をかへりみるものがない。 かくて慶應三年十二月勅命をおびて藩候伊達宗城公上京あり。この時の乗船廣島藩の汽船豊安丸、家老志賀頼母も従ったが、非常の難航であってここに立ちよりあり。仙右衛門氏宅に御やすみあったとき、頼母をもって波止のごとき出あり、くはしく次第を言上におよんだ所、何か頼みおくことはないかとの仰に「何もほかに願ふところはなく、ただ波止のために財産をつぶしてしまふたことはかまひませんが、あつき思召により、この志のむだにはらぬやう御取はからひをねがへれど」と申上げたとある。何分の仰をまてとあったがその後間もなく御代はあらたまり、その儀に及ばず、仙右衛門氏は終るまでさびしい苦しい生涯をつづけた。そのをはつたのは明治四年六月十三日、年を重ねること八十、戒名は眞賓軒徳巷宜勝居士。如何に世の為人の為身を犠牲にしてはたらいたとて決して報ひられるものとばかりはつまない。古今東西此の例にとぼしくない。仙右衛門氏またかくの如し。むくひられると否とにかかはらず身を粉にして世の為人の為にはたらくものこそまことに偉人として仰ぐべきである。不撓不屈のその精その意気まことに仰望すべきで有る。 大成は波止のために明治二十一、二年頃までは巨船もいりこみ、人の出入しげく商売も多く繫盛して居たが、打揚げる土砂の為に次第にその廣さをせばめ、深度も減じて、今や干潮時にはわづかにその深さ二尺のみ、くづれるにまかせあるるに任せ、曾孫の個人の有と見なし、労をわかって修復すること更にない。なほこの波止は、さらに長さ四十間、幅八間の石垣をきづいて濱にする考であったこと、明治九年一月其の遺子により竿入の願出をして居る書面に見へて居る。。」
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