仙右衛門氏の功績とは? わかりやすく解説

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仙右衛門氏の功績(伊方町誌)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 02:18 UTC 版)

古田仙右衛門」の記事における「仙右衛門氏の功績(伊方町誌)」の解説

寛政4年1792年二見浦加周に生まれた。だれも住んでいなかった大成の浜が、漁場として将来性があることに着目して漁場開拓人々相談したが、誰も相手にしなかった。そこでひとりでこの難事業計画し三年の間、毎日大成干潮風向海深潮流などを調査して天保9年1832年)に大成移住し人夫雇い波止築き始めた。しかし、風波のため何回となく崩れ、ついに人夫逃げだし、ひとりで石を運び私財のほとんどを使い果たしてその日食事にも困るほどだったが、くじけず頑張り通して2年4カ月後に130メートル大波止と、36メートル小波止を造りあげた。この工事完成によって漁場開かれ多くの人が住みつくようになった。現在、波止のそばに頌徳碑建てられている。

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仙右衛門氏の功績(町見郷土誌)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 02:18 UTC 版)

古田仙右衛門」の記事における「仙右衛門氏の功績(町見郷土誌)」の解説

大成部落開拓者として忘れることのできない恩人古田仙右衛門氏とする。二見浦から出でて他の部落開拓した人は他にある。加周を開いたのも、鳥津開いたのもみな二見浦の人であった。けれどもその開拓にあたって其の地の将来をみとをし、その地の生業の動かすべからざる基礎をきづき、この為私財ことごとく失ってしかもその功一代にあらはるることなく、年と共に忘れられんとして行くことはこの仙右衛門氏の如きはない。後にいたりて清水議員有志村會にはかつてその功績一片の碑にとどめたけれども多く知るものがない仙右衛門氏の心中にはもとよりその功労を人にみとめられんなどといふさもしきもの無かったであらう。といってその労を埋めてしまうにはあまりにおしい。部落人の中にも、また多くの人の中にも、あれは自分一個のもおけの為にやった仕事であるとするものが多いけれども次の事を知るものは決してその然らざるを見るであらう。仙右衛門氏は二見の人、仙蔵ともよぶ、さきには役つき有ったといはれているがその何のであったかを知らないかねてより大成漁場として立派にたちゆく事に眼をつけていた。大きな網代があり、魚族非常に多いことをみていた、しかも海岸犬牙錯綜して浪のあることにまかせ、四方通ずる路といふ路なく、嶮阻であって誰もこれを開いて漁場となすのみならず、海を利用して各種産業を起こさうとする者がいないのを慨しどうにかして之を敢行してやうとして、他人にははかるけれども、その荒波中に波止きづいたとて到底すて石をするばかりで物にはなるものでないと、あざわらふ者が多かった。よって獨り之をやらうと決心した。それからは、毎日雨の日も風の日も、終日嶺に上りて上手の干潮風向き冊子、下つては海の深さ潮流のはやさをしたしく嶮し、気狂とあざみ笑はれた。されどももとより意に介する所なく、三年の後大成下り、今の曾孫居宅(※昭和7年当時)とするところに家をかまへた。その時には誰もすんで居なかったといふ、そこへ瓦ぶきの家をたてたといひ傳へて居る。 大小波止をきづき出した、きづきはじめたのは天保9年8月、同じ11年12月にともかく竣成見たのであるが、きづきあげては波にくづされ、くづされてはまたつきなほし、幾度もいくどもくづされるの人夫遂に逃げ出し一人にげ二人にげして仙右衛門氏自ら一人土砂をはこび石をうごかしたといふ。或は労賃増して人夫慰撫しはげますなど、これらの為にその私有財産つかひはたし、自らはいらふに飯もなく大豆とぼしくなって、それを粥にしてすすりわづかに口を糊したことがあったといふ、外には怒罵嘲笑あり、内には妻子もその志を汲まず、をのが不足を、ほしいままに訴ったへて夫の気をくぢく、病みほうけ、飢口つかれてもその志をあらためず、ついに事業なしとげたが、この上の困難はさらに加わってゆく。仕遂げた波止大の方が幅六間余、長さ七十五間、小なる方が幅六間余、長さ二十間、干潮といへども波止の中で八尺深さたもって居た明治のはじめころは千石二千石船がいくそうとなく航行して居た。かくてどうにか波止をきづき上げることが出来た、そこで網をねがひ出たので有る。ところが大成には人がない。足成住人かたどり人数こしらへあげ、いはし網を願出たのである。むかしは何の種類商業もことには網と酒屋庄屋いとなみよりも他になかった。そこで平民庄屋上の事をしたといふので、ことごtこうに庄屋反感をかひ事業の上にいふべからざる困難と支障きたした。これらについてのくはしい物語りはつたはらない波止はきづき、網は出来たけれども、内家庭困窮はますますくわはり、誰も同情するものはない。かうして外には船の出入多く、住む人も次第増えてきて、部落次第にかたちつくられてき、各その業に案ずる出来ようになったけれども、仙右衛門氏をかへりみるものがない。 かくて慶應三年十二月勅命をおびて藩候伊達宗城上京あり。この時の乗船廣島藩汽船豊安丸家老志賀頼母従ったが、非常の難航であってここに立ちよりあり。仙右衛門氏宅に御やすみあったとき、頼母をもって波止のごとき出あり、くはしく次第言上およんだ所、何か頼みおくことはないかとの仰に「何もほかに願ふところはなく、ただ波止のために財産つぶしてしまふたことはかまひませんが、あつき思召により、この志のむだにはらぬやう御取はからひをねがへれど」と申上げたとある。何分の仰をまてとあったがその後間もなく御代あらたまり、その儀及ばず仙右衛門氏は終るまでさびしい苦し生涯つづけた。そのをはつたのは明治四年六月十三日、年を重ねること八十戒名は眞賓軒徳巷宜勝居士如何に世の為人の為身を犠牲にしてはたらいたとて決して報ひられるものとばかりはつまない。古今東西此の例にとぼしくない。仙右衛門氏またかくの如し。むくひられると否とにかかはらず身を粉にして世の為人の為にはたらくものこそまことに偉人として仰ぐべきである。不撓不屈のその精その意気まことに仰望すべきで有る大成波止のために明治二十一、二年頃までは巨船いりこみ、人の出入しげく商売多く盛し居たが、打揚げる土砂為に次第にその廣さをせばめ、深度減じて今や干潮時にはわづかにその深さ二尺のみ、くづれるにまかせあるるに任せ曾孫個人の有と見なし労をわかって修復すること更にない。なほこの波止は、さらに長さ四十間、幅八間石垣きづいて濱にする考であったこと、明治九年一月其の遺子により竿入の願出をして居る書面に見へて居る。。」

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