仙台高等工業学校、東北帝国大学時代
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「八木秀次」の記事における「仙台高等工業学校、東北帝国大学時代」の解説
山川義太郎教授の世話で大学卒業後直ちに仙台高等工業学校の講師となった。八木は東北帝国大学理科大学の本多光太郎の知遇を得、のちに長岡半太郎に伝え、長岡と本多の推薦で海外留学が八木に命じられた。1913年からドイツのドレスデン工科大学のバルクハウゼン教授の下で研究した。1914年、東京帝国大学工科大学の鯨井恒太郎と一緒にスイスにいたが、第一次大戦勃発でイギリスのロンドン大学のフレミング教授の教室に移り、深い関係を築いた。この頃には語学交換教師として、『源氏物語』の研究で有名なアーサー・ウェイリーに日本語を教えている。1915年は渡米し、ハーバード大学のピアス(英語版)教授の下で研究した。八木の関心は次第に無線の方に移っていった。 帰国後の研究では、当時の電気工学の主たる関心がいわゆる強電と言われる電力工学にあったところをいち早く弱電と呼ばれる通信利用の分野の研究に取り組んだ。研究活動の資金確保に当たっては、財団法人斎藤報恩会から「電気を利用する通信法の研究」(八木秀次、抜山平一、千葉茂太郎の共同研究)で1934年(昭和9年)度までに合計22万5000円の補助金を受けた。これらの成果として八木・宇田アンテナ、分割陽極型マグネトロン等の業績を生み出す。 八木が本多と懇意にしていることから、物理学科、金研で行われていた論文の輪読会にも出席していた。その席上であまりに鋭い指摘をするために、会の開催日を八木の属する電気工学科のゼミのある日と同じにして出席できないようにしようとする動きが出るほどだったという逸話がある。 八木は、「本質的な発明ができるようになるためには心眼(科学者としての勘)で電波が見えるようにならなければならない」と日頃から学生に教えていた。 米国企業の研究開発体制を参考にして、大学内に工学部附属電気通信研究所の設置を八木は構想するが、大学附属の電気通信研究所として実現されるのは大阪帝大が本務となった後の1935年(昭和10年)になる。
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