仏教を介した関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:06 UTC 版)
日本とインドの文化的交流は6世紀に仏教が日本に伝わったことから始まる。歴史的にはっきり確認できるインド出身の日本訪問者は、736年に来日した菩提僊那(ボーディセーナ)であり、仏教を広めるとともにさまざまな文物を伝え、日本で没した。菩提僊那は752年に東大寺の大仏の開眼供養会の導師をつとめたことで知られる。9世紀の中国(唐)の詩人・段成式による随筆『酉陽雑俎』によれば、段成式と面識のあった金剛三昧と呼ばれる日本僧は、中国から西域を経由してインドを訪れたという。9世紀後半には、僧侶であった高岳親王が中国から天竺を目指したが、その途中マレー半島付近で没したとされる。13世紀初頭の明恵は天竺訪問を強く志し、玄奘の『大唐西域記』をもとに長安から王舎城(ラージギル)までの旅行計画を立てたものの、反対を受けて果たせなかったというエピソードが知られる。 仏教がバラモン教(のちのヒンドゥー教)の神格を護法善神(天部)として取り入れた結果、仏教の影響を受けた日本の民間伝承や信仰はインドに由来する要素を含むこととなった。例えば、インドの女神サラスヴァティーは日本では「弁財天」として、またブラフマーは「梵天」、ヤマは「閻魔」として知られる。釈迦ゆかりの「祇園精舎」は『平家物語』の著名な冒頭にも盛り込まれ、祇園精舎の守護神と認識された「牛頭天王」を日本神話のスサノオと重ね合わせて信仰対象とする祇園信仰も生まれた。「三昧」(サマーディ)、「業」(カルマン)、「檀那」(ダーナ)など、インドに由来する概念も多い。 インドの古典言語であるサンスクリット(梵語)や、それを表記する文字である悉曇文字(シッダマートリカー、いわゆる梵字)も、仏教を介して日本で普及した。悉曇文字は古代インドのブラーフミー文字・グプタ文字から派生した文字が仏教伝播と共に伝わったもので、日本には天平年間に伝わった。インドではサンスクリットの表記にデーヴァナーガリーが用いられるようになって廃れたが、悉曇文字と密教が結びついた日本では守護札・塔婆・石塔・護符などの用途で現代も模倣されている。日本の鳥居は、インドの寺院の入り口にあるトーラナと関係があるという説もあるが、さまざまにある諸説の一つであって確証されているわけではない。 仏教と仏教に密接に結び付いたインド文化は日本文化に大きな影響を与え、それは今日でも感じられ、両国の自然観の親和に結び付いた。さらに、仏教の影響が普遍的にみられる両国の社会は、現在の世界の他の国においては一神教が多いのとは対照的で、アニミズムの宗教である神道と同様、ヒンドゥー教にもアニミズムの要素がみられる。
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