事前行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 18:00 UTC 版)
日本海軍の基地航空部隊は10月27日の11時30分、零戦40機、九九式艦爆6機、彗星艦爆2機をもってモノ島周辺の艦船群を攻撃、零戦1機、九九式艦爆2機、彗星艦爆1機が未帰還となり、駆逐艦1隻に命中弾を与え、この艦は味方に曳航されて退避した。南東方面艦隊司令部ではこの日、航空戦隊指揮官などを集め、今後の航空作戦に関して研究を実施した。その中で、モノ島奪回の計画は陸軍(第十七軍)にも海軍(第八艦隊)にもなく、同島の奪回を断念するとの結論に達した。この時点で日本軍側は連合軍モノ島上陸が何を意味するのか、その意図をつかみ兼ねており、当分航空作戦はニューギニア方面を重視するとし、空襲の激しいブインに航空兵力はおかず、ブカ等で作戦するとした。しかしながらソロモンの情勢は予断を許さないものであり、十一航艦参謀長中原義正は連合艦隊司令部に対し昼間実働兵力84機である旨を通報し航空兵力の増援を要請した。 10月31日朝、ラバウルを発進した陸偵がニュージョージア島東方沖を北上する連合軍の輸送船団を発見、その後8時55分この輸送船団の兵力を「巡洋艦3隻、駆逐艦10隻、大型輸送船12隻、特運送船大型11隻、中型輸送船10隻」と報じた。その後夕方から夜半にかけて陸攻、艦攻、水偵による攻撃が企図されたが、結局いずれも有効な打撃を与えることはできなかった。翌朝5時26分、アメリカ第三海兵師団がタロキナに上陸を開始、同じ頃ムッピナ岬の日本海軍の見張り所からも敵上陸の第一報が発信された。第一基地航空部隊はこの上陸船団に対して、零戦、九九式艦爆、彗星艦爆などで5時40分と11時45分の二度にわたって攻撃を実施したが、それぞれ16機、34機のムンダおよびベララベラ島から飛来した連合軍戦闘機の妨害もあって有効な被害を与えることはできず零戦15機、九九式艦爆5機が未帰還となった。これらの「ソロモン航空部隊」の戦闘機は駆逐艦コンウェイ(英語版)の戦闘機指揮管制チーム(Fighter-Directer Team)によって電波誘導され的確に日本軍機を迎撃することができたのである。この日連合軍の上陸船団は暗礁に乗り上げるトラブルや二度の空襲で4時間ほど揚陸作業が中断したにも関わらず、15時30分までには全12隻の輸送船の内8隻が揚陸を完了(およそ14000人の兵士と6200トンの物資)しており、いったん16時に出港したものの、残りの4隻の積荷に重要物資が積載されていたため、夜襲の危険を承知で本隊より分派され反転、その後支援部隊のメリル隊が大森仙太郎少将率いる連合襲撃部隊を撃退した後(ブーゲンビル島沖海戦)、改めてタロキナへの揚陸を再開した。4隻の輸送船は翌日の午後ようやく揚陸を終え、先に南下していた本隊と合流した。 第三艦隊司令部はこの日ラバウルに進出、空母艦載機も1日~3日にかけてラバウル、カビエンに進出した。進出機の内訳は以下のようであったと推測される。 第一航空戦隊進出機数零式艦上戦闘機九九式艦上爆撃機九七式艦上攻撃機二式艦上偵察機翔鶴32機 23機 16機 3機 瑞鶴32機 22機 16機 3機 瑞鳳18機 8機 計82機 45機 40機 6機 これら総計173機の艦載航空隊は、艦戦と艦偵がラクナイ(ラバウル東)、基地、艦爆がブナカナウ(ラバウル西)、基地、艦攻はカビエン基地にわかれて展開した。また、第一航空戦隊は「機動航空部隊」として2日から戦闘に参加することとし、基地航空部隊と「第一時連合攻撃隊」を編成、翌朝タロキナ沖の輸送船団の攻撃を行うこととした。また部隊の指揮は第三艦隊の指令長官である小沢治三郎と南東方面艦隊司令長官である草鹿任一との間で、この方面の状況に明るい草鹿の調整の基に作戦を行うように両司令部間で協議された。
※この「事前行動」の解説は、「ろ号作戦」の解説の一部です。
「事前行動」を含む「ろ号作戦」の記事については、「ろ号作戦」の概要を参照ください。
- 事前行動のページへのリンク