事件までの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 02:37 UTC 版)
1934年(以下全て同年) 6月、突撃隊叛乱の噂が流れはじめる。 6月初め、ダッハウ強制収容所の所長テオドール・アイケの強制収容所監視部隊(のちの親衛隊髑髏部隊)が演習。突撃隊強襲を想定したもの。 6月4日、ヒトラーとレームが首相官邸で5時間にもわたり対談。ヒトラー、「第二革命」放棄を求めるが、レームは不穏な情勢の鎮静化に努めると述べるにとどまる。 6月7日、突撃隊隊員全員に一ヶ月間の休暇が与えられる。 6月8日、レームが神経痛治療のために療養に入ることを発表。 6月17日、マールブルク大学で副首相パーペンがレームやナチスの過激派を批判する演説を行う(マールブルク演説)。基本的には突撃隊の第二革命論者を批判したものだったが、パーペンは非ナチ党員だっただけに親衛隊に警戒されてブラックリストに載る。 6月21日、ヒトラーがイタリア訪問の報告で大統領私邸を訪問する。この際にヒンデンブルク大統領はブロンベルク国防相を通じ、ヒトラーが情勢を処理できない場合には大統領が戒厳令布告を行い、軍に事態収拾を行わせることをヒトラーに通告する。この後、車椅子のヒンデンブルク大統領とも直接会談したが、同じことを告げられる。ヒトラーは首相権力の形骸化を恐れてこのときに粛清の最終的な決意を固めたという。 6月22日、ヒトラーが突撃隊上級指導者ヴィクトール・ルッツェにレーム追放を告げる。ヒムラーは突撃隊の蜂起にそなえ、親衛隊を待機させる。また、国防省も突撃隊のクーデター発生の警戒態勢に入り、親衛隊から武器供与の要請があればこれに応じてもよいと指令する。 6月23日、国防省防諜部が「突撃隊に武装決起を命じたレームの命令書」を入手するが、偽作の疑いが濃いと判定している。一方ゲーリング航空相から突撃隊指導者および反逆者の逮捕リストがブロンベルク国防相に届く。 6月25日、ヒトラーはレームを6月30日に逮捕する旨をブロンベルク国防相に伝える。国防軍総司令官フリッチュ中将は全軍の外出禁止を下令する。 6月28日、ヒトラー、エッセンでエッセン大管区指導者ヨーゼフ・テアボーフェンの結婚式に参加。ゲーリング航空相に粛清の指揮をとらせるためにベルリンで待機させる。ヒトラー、ミュンヘンのバート・ヴィースゼーで療養していたレームに連絡し、6月30日にそちらで突撃隊幹部と会合したい旨を伝える。これを受けてレーム以下突撃隊幹部が次々とミュンヘン郊外のバート・ヴィースゼーに集まる。 6月29日、ゲーリング、兼任するプロイセン州首相の権限で、自らが兼任するプロイセン州内相に戒厳令布告の権限を与える。ゲーリングの指令により親衛隊が動員され、突撃隊の武装解除と突撃隊指導者の逮捕を開始する。6月29日、フォン・ブロンベルク国防相、ナチ党の『フェルキッシャー・ベオバハター』紙に寄稿して「ヒトラーを断固支持」と表明(突撃隊への処置を間接的に要求)。6月29日夕方、ヨーゼフ・ディートリヒSS中将(当時)率いる「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」がベルリンからミュンヘンへ向けて移動。到着後にはアイケのダッハウ強制収容所の監視部隊も合流。
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事件までの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 07:34 UTC 版)
当時、「ウィンター・ダンス・パーティ」と題された、3週間かけてアメリカ合衆国中西部24の都市をまわるツアーの計画が持ち上がっていた。日程の都合から、このツアーは移動の連続となっていた。開催地間の距離は、公演のスケジュールを組む上であまり問題とされなかったのだった。そういった混乱に加えて、彼らが移動に使うバスも現地の気候に対応するものではなく、ツアーが始まってすぐバスのエアコンは壊れてしまう。ザ・クリケッツのドラム、カール・バンチは足にひどい凍傷を負い、地元の病院へと入院した。彼の療養中は、バディ・ホリーとリッチー・ヴァレンスが交替でドラムを叩いていた。 アイオワ州クリアレイクの「サーフ・ボールルーム」はツアーの開催地として立候補していたわけではないが、日程を埋めてしまいたいプロモーターが「サーフ・ボールルーム」の支配人キャロル・アンダーソンに声をかけ、オファーをした。支配人はそれを受けて、バディ・ホリーたちの出演日を2月2日の月曜日に設定した。 バディ・ホリーがボールルームへと着いたのはその日の午後で、そのころにはツアー用のバスに大きな不満を持つようになっていた。彼はバンドメンバーに、このショーが終わったら、飛行機をチャーターして次のミネソタ州ムーアヘッドに行こうと語っている。「ビハインド・ザ・ミュージック」によれば、「音楽が死んだ日」のホリーは清潔なシャツや靴下、下着を切らしたことにもいらついていた。次の公演の前にどこかでクリーニングをしたがっていたが、クリアレイクのクリーニング屋はその日営業をしていなかった。 飛行機の整備をしたのは21歳のパイロット、ロジャー・ピータースン Roger Peterson である。彼はアイオワ州メイソンシティのドワイヤー・フライング・サービスに務めている地元の人間だった。ロジャーは一人当たり36ドルの料金をとり、ミュージシャンたちを小型単発機ボナンザ(1947年製、モデル35)に乗せた。ボナンザはパイロットのほかに3人分の席しかなかった。 リチャードソンはツアー中に風邪をこじらせていたので、ホリーのバンドメンバーだったウェイロン・ジェニングスに席を譲ってくれないかと頼み、ジェニングスはそれを了解した。彼が飛行機に乗らないと知ったホリーは、「じゃあ僕はお前のおんぼろバスが凍っちまう事を祈っててやるよ!」と冗談を飛ばした。彼もやはり冗談で「じゃあ俺はお前のおんぼろ飛行機が落っこっちまう事を祈っててやるぜ!」と返したという。その後、このやりとりはジェニングスを一生苦しめることになる。 それまで小型飛行機に乗ったことがなかったリッチー・ヴァレンスも、もう一人のバンドメンバーであったトミー・オールサップに席を代わってほしいと頼んだ。トミーは「もう一つの席はコイン次第だ」と返した。伝記映画のワンシーンとは異なり、離陸直前の空港でコイントスがあったわけでも、バディ・ホリーがトスしたわけでもない。DJのボブ・ヘイルが、空港を発つ直前のミュージシャンたちの前でコインを投げたのである。ヴァレンスが勝利し、席を手に入れた。 ディオン&ザ・ベルモンツのディオン・ディムーチも飛行機に乗るよう提案されたというが、いつ誘われたのかはっきりしていない。36ドルというフライト料はディオンが親からアパート代として月にもらっている金額と同じであり、彼はそんな甘えを肯じることはできなかった。
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