事件への関与と裁判
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1990年、ボツリヌス菌の培養に関与した。(立件はなし) 1995年の目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件では逮捕監禁致死罪に問われ同年5月29日に逮捕、起訴された。 裁判では井上嘉浩が飯田も拉致事件に関与していたと主張1996年10月26日の第一審では懲役7年、1998年9月10日の控訴審では懲役6年6ヶ月の判決が下された。上告をせず刑が確定し、2002年8月25日に刑期満了で出所した。一審後にノイローゼ、聴覚過敏の症状が発生、服役中の2002年3月には脳内出血で倒れ、二度の手術により車椅子に乗れるほどに回復したが、記憶に深刻な障害を負っているという。
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事件への関与と裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 17:09 UTC 版)
教団の核開発を担当し、オーストラリアに「豊田研究所」を持っていた。 1995年3月20日の地下鉄サリン事件ではサリン散布の実行犯に指名され東京の地下鉄日比谷線を担当、1人を死亡させ、358名に重傷を負わせた。 同年5月15日、井上嘉浩と共に秋川市(現:あきる野市)で逮捕。同日発生の東京都庁小包爆弾事件、4月30日、5月3日、5月5日の新宿駅青酸ガス事件、この他自動小銃密造事件にも関与し、以上4つの事件で起訴された。 豊田は淡々と冷静に証言するだけだった。豊田は「自分がした行為は人間として許されない」「このような事件が2度と起こらないようにするのが極めて当然である」「罪の重さに目の前が真っ暗になる。償いの言葉すら残されていない」「私のような者が生きていること自体が申し訳なく、浅ましい」と自己責任を主張した。これに関して豊田は地下鉄サリン事件の遺族に宛てた手紙の中で「裁かれる者として、遺族・被害者の方の不快感を増大させる言動を慎むことが最低限のとるべき態度だと考えます」と述べた。 1999年に豊田、杉本繁郎の公判に麻原が証人として出廷した際には、麻原が意味不明な発言などを繰り返したため「松本被告、僕は今日何も言わないつもりできたんですけれども、今日のあなたの態度を見て考えが変わりました。あなたは本当にグルなんですか」と麻原に問いかけた。麻原は黙っているだけだった。 また検察官に「麻原に対して現在の心境は」との問いに「広瀬の証人として出廷した公判での言動(麻原は宣誓書の署名に関して英語で対応し続け裁判長に退廷を命じられた)については怒りを通り越して哀しい」と共犯への心遣いも見せた。 2000年7月17日の第一審では「人格優秀、学業優秀、しかしながら人格等において優れていたとしても、それは、地下鉄サリン事件等の被害者にも言えること」として死刑判決、2004年7月28日の控訴審ともに死刑判決を受け上告していたが、2009年11月6日に上告棄却が決定し、死刑が確定した。東京大学出身者の死刑が確定したのは日本国憲法下では初めてであり、旧帝国大学出身者としては下関通り魔殺人事件の犯人(九州大学)についで2人目である。またオウム真理教事件で死刑が確定するのは8人目。 2015年の地下鉄サリン事件の公判では、他の死刑囚が出廷する中、拘置所での証人尋問となったが、その理由は「自分は拘置所から一歩も出てはいけない。それが贖罪だ」だったという。2018年7月26日に東京拘置所で死刑が執行された。50歳没。 友人の伊東乾によると、豊田は2018年7月6日に麻原彰晃ら7名が死刑執行されたあと、身辺整理を始め、匿名で手元にあった現金を2018年西日本豪雨被害者救済の義援金に全額寄付したという。
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