上京 - 大泉サロン
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1970年、『週刊少女コミック』に『森の子トール』の連載を始め、5月に大学を中退して東京に転居する。小学館が斡旋した、都内練馬区の大家自宅の離れの上下に各1室の快適な部屋に住み、作業する。条件依頼して石ノ森がネーム作業する定席がある喫茶店「ラタン」から10分の近辺だった。2カ月間で孤独で、買い物かごを持ち偶然のふりをして喫茶「ラタン」に行き、石ノ森の顔を見て少し話して、孤独を紛らわせていた。新人なので、半年間くらいは仕事を入れておきたくて、テレビ番組や企業宣伝用のタイアップ企画を多く受け、ほかにも挿絵イラストの仕事も多く引き受け職人的な自信を持った。 後に共同生活を始める漫画家萩尾望都との最初の出会いは同1970年春。講談社別館で缶詰になって描いていた『アストロツイン』の完成直前、寄っていた萩尾を編集者から紹介され、臨時のアシスタントとして同作の仕上げを手伝ってもらった。萩尾は、原稿を見せに上京していた折だった。同じ漫画家である萩尾とはたちまち意気投合。萩尾は、同世代の文通相手で音楽を学んでいた増山法恵の家に泊まっており、紹介されて竹宮も増山と親しくなった。やがて増山は、自宅向かいの長屋に空きが出たと、竹宮と萩尾の共同生活を提案してきた。その導きで練馬区南大泉の増山宅の斜め向かいの共同アパートで同居を始める。増山ら友人達から様々な文化的知識を吸収した。増山家で食事をいただき風呂まで入ることも多かった。萩尾は規則正しい生活を続けたが、竹宮は進めば朝まで続ける変則生活となる。そこに増山がサロン化を計画して、2人にファンレターを送ってきた者の中から選んで同年代の女性の少女漫画家たちに声をかけた。出入りしていた顔ぶれは、漫画家では山田ミネコ、ささやななえこのほか、ファンでは後にデビューした坂田靖子(当時は高校生)らがいた。拠点となった時の大泉のアパートは「大泉サロン」と呼ばれるようになり、集まったメンバーは後に「24年組」と呼ばれた。竹宮は「トキワ荘の女性版」だったと回想している。 1972年、竹宮は萩尾、増山、そして山岸凉子の4人で45日間のヨーロッパ旅行に出掛ける。ソビエト連邦のハバロフスク経由モスクワ回りでパリ周回で行き、竹宮始め、24年組がヨーロッパを舞台にした漫画を描く原動力になった。石畳の構造、建物の門や窓の厚み、樹の葉の大きさが違い、枯葉もきれいなもので、バラの花びらの厚みまで違い、写真を撮って目に焼き付けた。各地の本屋で大量の買える限りの資料の画集や写真集を購入し、船便で日本に送った。訪問先はソ連、フランスのほかデンマーク、ベルギーなどで、この時の見聞は後に『風と木の詩』などに生かされた。 大泉では楽しかったが、同居する萩尾望都の才能と比べて焦る気持ちから大泉サロンは解散となった。竹宮は、主に漫画を読んで育った自分は映画鑑賞や読書の量が足りず、映像的な表現ができる萩尾との差に悶々としていたことを回想している。また、自伝『少年の名はジルベール』では「自分が最も描きたいのは少年愛であり、そのためだけに作ってしまっている。萩尾望都との違いは、それを腐女子以外の読者にも共感できるドラマや世界観の中に、必然性があるものとして吸収できているかどうか。その差が担当編集者の評価となって表れている」と、その当時を自己分析している。 車酔い、体重減少といったスランプの症状は1972年頃から出ており、絵柄にも影響を与えていた。欧州旅行も、状況を打破したいとの思いがあった。
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