リューゲン島の攻略とは? わかりやすく解説

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リューゲン島の攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 14:45 UTC 版)

ポメラニア戦役 (1715年-1716年)」の記事における「リューゲン島の攻略」の解説

陸からシュトラールズント包囲されスウェーデン軍による海上封鎖成功裡排除されウーゼドム島占領されると、デンマークプロイセンザクセン連合軍長らく意図していたリューゲン島攻略前提満たされたと判断した。同島の支配は、そこが要塞都市シュトラールズント補給増援を送ることができる唯一のとなっていたため、重要だったのである。これに先立ってデンマークザクセンロシア各国の軍が敢行していた1711年1713年攻囲戦では、リューゲン島支配欠いていたことが失敗主な原因であったリューゲン島制圧向けて連合諸国大規模な軍を動かした10月中旬輸送船グライフスヴァルト到着する。この作戦向けて歩兵24大隊騎兵35個中隊と大砲26門(合わせて歩兵19,000名と騎兵3,500名)が用意された。その内デンマーク軍歩兵10大隊騎兵16個中隊を提供したプロイセン軍歩兵19大隊騎兵15個中隊を現地集めザクセン軍は歩兵4個大隊騎兵2個中隊を差し向けたのであるプロイセン元帥アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世がこの軍団の上指揮権担った。その下に、デンマーク軍から騎兵指揮官としてフランツ・ヨアヒム・フォン・デーヴィッツ(ドイツ語版中将並びに歩兵指揮官としてヴィルケン将軍配されるスウェーデン軍はこの島に4,500名の守備隊置いており、その指揮カール12世が執っていた。その構成騎兵12個中隊と歩兵5個大隊である。他には大砲12門があった。連合諸国侵攻軍は10月末、グライフスヴァルト集結する。11月8日には、ルートヴィヒスブルク英語版)で部隊搭乗始まったプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世デンマーク国王フレゼリク4世も、この上陸に参加する11月11日輸送船500隻に分乗し侵攻部隊はセーステッド提督率いデンマーク艦隊護衛され、ついにリューゲン島向けて動き出した。この艦隊は、グラーボウ(英語版)に近い島南端、パルマー・オルト(英語版)に向かう。しかし、連合軍にそこで上陸する意図はなかった。なぜならカール12世率い守備隊全軍が、同地準備整えていたからである。本来はより東側にある無防備な場所で陸に上がる予定であったが、激しい嵐が巻き起こったため、艦隊は再び順風恵まれ11月15日まで方向転換待機強いられた上陸可能性をもってスウェーデン軍を脅かすべく、騎兵乗せた船は一時的にパルマー・オルトに留まった。セーステッド中将は、歩兵とともにグライフスヴァルト湾のシュトレーゾウ(英語版)へ向かう。おかげで、この動きスウェーデン軍察知されなかった。シュトレーゾウに到着した後、中将騎兵乗せた残りの船に信号送り、自らに続くよう指示する騎兵の船が去ったのを見たカール12世は、待つことなく即座に2,000名を率いてシュトレーゾウへ向かった11月15日悪天候突いて侵攻軍がシュトレーゾウへの上陸を敢行する部隊揚陸迅速に行われた。そこにいたのは、スウェーデン竜騎兵小部隊のみである。このため上陸中の部隊何ら抵抗も受けなかった。2時間の内に歩兵10,000名と砲兵揚陸を果たす。アンハルト=デッサウ侯の指揮下、すぐに陣地障害物拒馬設置始まった夕方には、その作業もほとんど終わる。歩兵比べれば騎兵揚陸は進まなかった。夜が来るまでに、上陸果たした騎兵は5個中隊に留まる陸に上がる際、多く兵士濡れた。そのため、夜の間に衣服を乾かすべく、随所で火が焚かれた。しかし、これらの焚火スウェーデン軍にとっても上陸部隊発見情報収集容易にした。 カール12世戦術15年前にナルヴァの戦い勝利を収めた時と同じく一点集中攻撃加え防衛線を突破した上で敵軍側面から撃退することにあった。その襲撃実施するべく、カール12世選んだ地点デンマーク軍のイスケ連隊守っていた。早朝3時から4時にかけて、スウェーデン軍の攻撃が始まる。歩兵2個大隊をもって細長い戦列形成する一方砲兵位置就いたデンマーク軍槍兵はこの戦列を見つけ、警報発した戦列はいよいよ攻撃に移ると、マスケット銃激し迎撃受けた一発撃ち返すことなくスウェーデン歩兵前進する。彼らは拒馬乗り越え築かれていた土塁飛び越えた。この襲撃は、イスケ連隊一瞬揺らぐほど猛烈であった。しかし同連隊はすぐに持ち直し激しく応射し始める。間もなくデンマーク軍増援を受け、スウェーデン軍撃退成功したその間に、カール12世拒馬がある場所に陣取り新たな攻撃向けて自軍再編する。しかしスウェーデン軍は再び激し銃火迎撃され、短時間白兵戦経て押し戻された。事実疑われているものの、カール12世はこの時、「もはや神は私に味方していないのか?」と叫んだという。戦闘開始から15分後、アンハルト=デッサウ侯はデーヴィッツ中将に、プロイセン軍ザクセン軍の騎兵5個中をもってスウェーデン軍側面を突くよう命じた。しかし、これはスウェーデン騎兵撃退された。血なまぐさい戦い続いたが、それはやがて激し応戦背景とした、スウェーデン軍全体撤退戦へと発展するカール12世は胸に銃弾受けて負傷し乗馬下敷きになった。そしてやっとのことで間一髪瞬間救助されのである1時間あまり続いた、この戦い損害大きかったスウェーデン軍全ての大砲失い歩兵実質的に全滅した将官4名が戦死するか、命を落とすほどの重傷を負う。スウェーデン軍合計500名から600名の死傷者出した一方、この歩兵戦主力となったデンマーク軍では93名が死傷している。ザクセン軍は騎兵戦で死傷者36名、プロイセン軍49名を出した。 この戦いの後スウェーデン軍防備固めたアルテフェーア(英語版)の陣地撤退し、その掩護の下でシュトラールズント移動した。それでも同軍からは、1,200名の脱走兵出ている。連合軍その間スウェーデン軍追撃していた。明くる1715年11月17日リューゲン島残存し最後スウェーデン軍部隊降伏する将官4名、士官99名と兵549名が捕虜となった取り決め結果リューゲン島デンマークの手に渡ることになっていたので、同国歩兵4個大隊騎兵12個中隊が島に残り、他の部隊大陸へ戻った

※この「リューゲン島の攻略」の解説は、「ポメラニア戦役 (1715年-1716年)」の解説の一部です。
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