リューゲン島の攻略
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「ポメラニア戦役 (1715年-1716年)」の記事における「リューゲン島の攻略」の解説
陸からシュトラールズントが包囲され、スウェーデン軍による海上封鎖が成功裡に排除され、ウーゼドム島が占領されると、デンマーク、プロイセンとザクセンの連合軍は長らく意図していたリューゲン島攻略の前提が満たされたと判断した。同島の支配は、そこが要塞都市シュトラールズントへ補給と増援を送ることができる唯一の道となっていたため、重要だったのである。これに先立ってデンマーク、ザクセンとロシア各国の軍が敢行していた1711年と1713年の攻囲戦では、リューゲン島の支配を欠いていたことが失敗の主な原因であった。 リューゲン島の制圧に向けて、連合諸国は大規模な軍を動かした。10月中旬、輸送船がグライフスヴァルトに到着する。この作戦に向けて歩兵24個大隊、騎兵35個中隊と大砲26門(合わせて歩兵19,000名と騎兵3,500名)が用意された。その内、デンマーク軍は歩兵10個大隊と騎兵16個中隊を提供した。プロイセン軍は歩兵19個大隊と騎兵15個中隊を現地に集め、ザクセン軍は歩兵4個大隊と騎兵2個中隊を差し向けたのである。プロイセンの元帥、アンハルト=デッサウ侯レオポルト1世がこの軍団の上級指揮権を担った。その下に、デンマーク軍から騎兵の指揮官としてフランツ・ヨアヒム・フォン・デーヴィッツ(ドイツ語版)中将、並びに歩兵の指揮官としてヴィルケン将軍が配される。 スウェーデン軍はこの島に4,500名の守備隊を置いており、その指揮はカール12世が執っていた。その構成は騎兵12個中隊と歩兵5個大隊である。他には大砲12門があった。連合諸国の侵攻軍は10月末、グライフスヴァルトに集結する。11月8日には、ルートヴィヒスブルク(英語版)で部隊の搭乗が始まった。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とデンマーク国王フレゼリク4世も、この上陸に参加する。11月11日、輸送船500隻に分乗した侵攻部隊はセーステッド提督率いるデンマーク艦隊に護衛され、ついにリューゲン島へ向けて動き出した。この艦隊は、グラーボウ(英語版)に近い島の南端、パルマー・オルト(英語版)に向かう。しかし、連合軍にそこで上陸する意図はなかった。なぜならカール12世率いる守備隊の全軍が、同地で準備を整えていたからである。本来はより東側にある無防備な場所で陸に上がる予定であったが、激しい嵐が巻き起こったため、艦隊は再び順風に恵まれる11月15日まで方向転換と待機を強いられた。 上陸の可能性をもってスウェーデン軍を脅かすべく、騎兵を乗せた船は一時的にパルマー・オルトに留まった。セーステッド中将は、歩兵とともにグライフスヴァルト湾のシュトレーゾウ(英語版)へ向かう。雨と霧のおかげで、この動きはスウェーデン軍に察知されなかった。シュトレーゾウに到着した後、中将は騎兵を乗せた残りの船に信号を送り、自らに続くよう指示する。騎兵の船が去ったのを見たカール12世は、待つことなく即座に2,000名を率いてシュトレーゾウへ向かった。 11月15日、悪天候を突いて侵攻軍がシュトレーゾウへの上陸を敢行する。部隊の揚陸は迅速に行われた。そこにいたのは、スウェーデン竜騎兵の小部隊のみである。このため、上陸中の部隊は何らの抵抗も受けなかった。2時間の内に歩兵10,000名と砲兵が揚陸を果たす。アンハルト=デッサウ侯の指揮下、すぐに陣地、障害物と拒馬の設置が始まった。夕方には、その作業もほとんど終わる。歩兵に比べれば、騎兵の揚陸は進まなかった。夜が来るまでに、上陸を果たした騎兵は5個中隊に留まる。陸に上がる際、多くの兵士が水に濡れた。そのため、夜の間に衣服を乾かすべく、随所で火が焚かれた。しかし、これらの焚火はスウェーデン軍にとっても上陸部隊の発見と情報収集を容易にした。 カール12世の戦術は15年前にナルヴァの戦いで勝利を収めた時と同じく、一点に集中攻撃を加え、防衛線を突破した上で、敵軍を側面から撃退することにあった。その襲撃を実施するべく、カール12世が選んだ地点はデンマーク軍のイスケ連隊が守っていた。早朝の3時から4時にかけて、スウェーデン軍の攻撃が始まる。歩兵2個大隊をもって細長い戦列を形成する一方、砲兵も位置に就いた。デンマーク軍の槍兵はこの戦列を見つけ、警報を発した。 戦列はいよいよ攻撃に移ると、マスケット銃の激しい迎撃を受けた。一発も撃ち返すことなく、スウェーデン歩兵は前進する。彼らは拒馬を乗り越え、築かれていた土塁も飛び越えた。この襲撃は、イスケ連隊が一瞬揺らぐほど猛烈であった。しかし同連隊はすぐに持ち直し、激しく応射し始める。間もなくデンマーク軍は増援を受け、スウェーデン軍の撃退に成功した。その間に、カール12世は拒馬がある場所に陣取り、新たな攻撃に向けて自軍を再編する。しかしスウェーデン軍は再び激しい銃火に迎撃され、短時間の白兵戦を経て押し戻された。事実か疑われているものの、カール12世はこの時、「もはや神は私に味方していないのか?」と叫んだという。戦闘開始から15分後、アンハルト=デッサウ侯はデーヴィッツ中将に、プロイセン軍とザクセン軍の騎兵5個中隊をもってスウェーデン軍の側面を突くよう命じた。しかし、これはスウェーデン騎兵に撃退された。血なまぐさい戦いは続いたが、それはやがて激しい応戦を背景とした、スウェーデン軍全体の撤退戦へと発展する。カール12世は胸に銃弾を受けて負傷し、乗馬の下敷きになった。そしてやっとのことで間一髪の瞬間、救助されたのである。 1時間あまり続いた、この戦いの損害は大きかった。スウェーデン軍は全ての大砲を失い、歩兵は実質的に全滅した。将官4名が戦死するか、命を落とすほどの重傷を負う。スウェーデン軍が合計500名から600名の死傷者を出した一方、この歩兵戦の主力となったデンマーク軍では93名が死傷している。ザクセン軍は騎兵戦で死傷者36名、プロイセン軍は49名を出した。 この戦いの後、スウェーデン軍は防備を固めたアルテフェーア(英語版)の陣地に撤退し、その掩護の下でシュトラールズントへ移動した。それでも同軍からは、1,200名の脱走兵が出ている。連合軍はその間、スウェーデン軍を追撃していた。明くる1715年11月17日、リューゲン島に残存した最後のスウェーデン軍部隊が降伏する。将官4名、士官99名と兵549名が捕虜となった。取り決めの結果、リューゲン島はデンマークの手に渡ることになっていたので、同国の歩兵4個大隊と騎兵12個中隊が島に残り、他の部隊は大陸へ戻った。
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