ヤンマー時代とは? わかりやすく解説

ヤンマー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/17 15:40 UTC 版)

古川能章」の記事における「ヤンマー時代」の解説

1954年大学卒業後、ヤンマー入社する当時ヤンマーにはスポーツ同好会テニス軟式野球スキーなどはあったがサッカー部存在せず毎日物足らない古川1957年入社3年目一念発起し同志募りサッカー部創部画策、何とか14人で会社登録しヤンマーサッカー部誕生漕ぎ着けたサッカー経験者古川含めて僅か5人しかおらず、しかも7人はスポーツ自体をやって来なかったありさまで、古川練習メニュー作りボール真っすぐ蹴るところから始めた。更に社内における部の足場を固めるため「実力者取り込めばいろんな面でゴリ押しもできる」とヤンマー創業者山岡家婿養子取締役製造部長だった山岡浩二郎 をサッカー部長として迎え、その部下だった河瀬浩正を初代監督として迎えた創部から1年後1958年大阪府社会人サッカーリーグ5部 に登録。古川選手として活躍し、山岡部長就任部員増えチーム力アップする中で、1960年ヤンマー監督就任したこの後1年ごとに昇格し1963年には大阪社会人リーグ1部に昇格する。 なおこの間社会人リーグ昇格急いだのは古川全国リーグある日サッカーリーグ(JSL)創設構想早くから知っていたからである。これには、古川早稲田OB東京事情詳しかったことと、JSL創設尽力した長沼古川学生時代同期長沼からJSL可能性価値聞いて理解していた事も大きな要因一つであった古川長沼から逐一最新情報入手し参入のために必要な条件把握会社にも早くから根回しをし、「1年目リーグに入らなければ、どんどん差が広がってしまう」と必死に会社口説いた当時関西には田辺製薬という名門の他、湯浅電池大日日本電線・電電近畿・日本ダンロップなどの歴史のあるチームひしめいていたが、それらはJSL価値成功可能性大きな疑念抱き参加見送った結果創部10年にも満たないヤンマー関西唯一のチームとしてJSL第1回からの参加となった1965年JSLが始まると古川監督として采配を振る。ただ古川監督務めた2年は、初年度最終節東洋工業サッカー部戦で0-11という記録的な大敗喫して7位、翌年最下位終わり入替戦回り浦和サッカークラブ勝利(1勝1分)し最終的に残留を果たすなど成績は振るわなかった。ただ、この浦和クラブとの入れ替え戦勝利したことは、とてつもなく大きな意味を持った負けていたら釜本邦茂ヤンマー入社はなく、釜本抜きヤンマー関西の雄として、日本サッカー界に君臨することもなかった。 1966年サッカー部創部からチーム基盤創りに務めた古川は、残留という責任果たし監督退任創部当時から在籍した選手多くも、古川とともにサッカー部離れた。翌1967年からの監督鬼武健二コーチ加茂周マネージャー安達貞至体制釜本加入ヤンマー強豪となるが、安達古川ヤンマー引っ張った人物で、加茂安達誘われてヤンマー入社したのであるその後社業専念したものとみられ、1977年出版された『早稲田大学ア式蹴球部50年史』の会員名簿にはヤンマー農機勤務記載がある。晩年はヤンマーサッカー部OB会役職務めた2011年死去

※この「ヤンマー時代」の解説は、「古川能章」の解説の一部です。
「ヤンマー時代」を含む「古川能章」の記事については、「古川能章」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ヤンマー時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヤンマー時代」の関連用語

ヤンマー時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヤンマー時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの古川能章 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS