モハ10形
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「新潟交通モハ10形電車」の記事における「モハ10形」の解説
1933年に電車線の前身である新潟電鉄が開業した時に新造したモハ11形11・12・14(初代)の改造名義で、更新時期は11が1966年12月、12が1968年12月、14が1963年12月。なお、14は床が木製であった。
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モハ10形 (10)
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1925年(大正14年)7月、日本車輌製造製の15m級木造電車で、豊川鉄道モハ10形 (11 - 15) は同形車である。製造時はモハ1形 (1) であったが、1937年(昭和12年)6月にモハ10形 (10) に改められた。国有化後は、田口鉄道のモハ36, 37と交換される形で、同鉄道線内の列車に使用された。1951年(昭和26年)4月に廃車され、大井川鉄道に譲渡されてモハ201となり、1968年(昭和43年)まで使用された。
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モハ10形
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「豊川鉄道・鳳来寺鉄道・田口鉄道の電車」の記事における「モハ10形」の解説
モハ10形は、1925年の豊川鉄道、鳳来寺鉄道電化の際に用意された、車体長15m級の木造両運転台型制御電動車で、モハ1形として豊川鉄道向けに5両、鳳来寺鉄道向けに1両が日本車輛製造本社で製造された。屋根は丸屋根で、前面は軽いRをつけた非貫通3枚窓である。側面窓配置は1D33D33D1、座席はロングシートであった。定員は100人。台車は鉄道省DT10の流れをくむ日車球山形、電動機はTDK-31 (52.2kW) 4個を装備、歯車比は17:67である。落成時ヘッドライトは前面窓下に装備された、いわゆるオヘソライトであった。 1932年(昭和7年)に三信鉄道が開業すると、こちらにも乗り入れ、鉄道省払い下げの三信鉄道木造車とも併結運転されたりしており、後に天竜峡駅までも長駆している。 1938年(昭和13年)に両社ともモハ10形に改称され、鳳来寺鉄道のものは10、豊川鉄道のものは11 - 15に改められた。この頃オヘソライトをやめ、前面屋根上にヘッドライトを移設。 1943年(昭和18年)年8月1日に戦時買収・省線飯田線となった後は、買収されなかった田口鉄道モハ30形2両が鉄道省に供出され、代わりに1両が田口鉄道の運行に充てられた。 1949年(昭和24年) 11・12が部品調達できずに廃車解体。1951年(昭和26年)4月に残りを廃車。全車とも国鉄から形式を付与されなかった。この頃に内部を鉄骨で補強・腰板を鉄板と交換し、半鋼体化している。 10・13は大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ譲渡され、モハ200形201・202となった。14・15は田口鉄道へ譲渡。1956年(昭和31年)田口鉄道買収により豊橋鉄道に移管。1963年(昭和38年)前面窓下にサボ受けを設置。1964年(昭和39年)7月モ14・15へ改称。1967年(昭和42年)末にはヘッドライトをシールドビーム2灯化し、田口線廃線まで使用され、廃線後15は廃車解体。14は最終日の運転には参加せず、海老車庫にて2灯化したヘッドライトを1灯に戻し、主電動機を外して電装解除の上、設楽町へ譲渡されたが、田峰駅構内に9年間放置。1977年(昭和52年)から設楽町田口の資料館「奥三河郷土館」敷地内に静態保存されていた。2020年(令和2年)11月27日に設楽町清崎に移設し、2021年(令和3年)5月13日に開館した新たな奥三河郷土館(「道の駅したら」に併設)で静態保存されている。
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