メッケルの貢献
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1870年(明治3年)から3年間プロイセン王国に留学した桂太郎を中心に、普仏戦争(1870年 - 71年)の経過に鑑みドイツ式(プロイセン式)の兵制を採用すべし、という主張があった。明治十四年の政変で政界の中心となった伊藤博文も強固なドイツ派であった。当時の帝国陸軍の首脳である山縣有朋、大山巌、西郷従道らはフランス派であったが、伊藤や桂の影響で次第にドイツ式兵制への関心を高めた。1884年(明治17年)3月6日には、陸大教官としてドイツ帝国陸軍将校を1名雇い入れることを太政大臣が裁可している。 一方、1883年(明治16年)12月から1885年(明治18年)1月まで、陸軍卿の大山巌が軍事視察のため欧州に出張していた。随員には桂(陸軍歩兵大佐、参謀本部管西局長)が加わっていた。従来はフランス式兵制を支持していた大山(1871年(明治4年)から3年間、フランスとスイスに留学)だが、桂にドイツ式兵制への移行を進言され、欧州でドイツ帝国の様子を実見するにつれて、桂の進言を受け入れる方向に考えを改めたとされる。 大山は、ドイツ帝国陸軍大臣のパウル・ブロンザルト・フォン・セレンドルフ中将(en:Paul Bronsart von Schellendorff)に面会し、陸大への教官派遣を要請した。諸説あるが、セレンドルフは、ドイツ帝国参謀総長のヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ元帥(大モルトケ)と協議し、クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル参謀少佐(42歳)を日本に派遣することを決定した。セレンドルフとメッケルは、プロイセン王国陸軍大学校で教官と学生の関係にあり、メッケルは当時のドイツ帝国参謀本部の中で秀才として知られていた。 メッケルの日本への派遣を知った、在日フランス公使館附陸軍武官は、大山の外遊中に陸軍卿代理を務めていた西郷従道に、フランス式兵制を捨てるのかと抗議したが、西郷はこれを一蹴した。ただし、日本の陸軍士官学校がドイツ式の士官候補生制度に移行し、士官候補生1期(一般に陸士1期と呼ばれる)が陸士に入校したのは1888年(明治21年)11月であり、帝国陸軍において数年間、陸士はフランス式、陸大はドイツ式と仏式・独式の教育が併存する結果となった。 メッケルは1885年(明治18年)3月18日に来日し、1888年(明治21年)3月24日に横浜港を出港した船でドイツに帰国した。滞日期間は3年であった。帝国陸軍は、メッケルの居館を参謀本部の構内に用意し、メッケルに月500ドルの俸給を支払った。 陸大に着任したメッケルは、陸大の教育課程をドイツ式に改革した。即ち、校内での図上戦術(ドイツ帝国陸軍大学校の教育方法そのままであった)・校外での演習旅行による実戦を想定した教育、理論ではなく戦史に例証を求める教育に再構築した。メッケルは、外征経験のない帝国陸軍の将校に兵站の概念・知識が欠落していることを憂い、外征における兵站について熱心に教育した。 陸大は、メッケルが3年間で作り上げた教育課程を、1945年(昭和20年)の終焉まで継承した。 メッケルは参謀本部顧問としての役割も果たした。明治19年3月に臨時陸軍制度審査委員会(委員長は児玉源太郎歩兵大佐)が設置され、ここでの研究により6鎮台編制から6個師団編制に移行したこと、陸軍中央が陸軍省・参謀本部・教育総監部の3官衙(中央三官衙)に分かれ、参謀本部の組織が確立して統帥権の独立が確立したこと、陸軍の兵制が順を追ってドイツ式に移行したことについては、メッケルの功績が大きい。 メッケルの離日後、1890年(明治23年)に青山に移転した陸軍大学校の正門を入ったところにメッケルのブロンズ胸像が設置され(敗戦後に行方不明となった)、参謀本部の食堂にメッケルの肖像画が掲げられた。
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