ミロシェヴィッチ後とは? わかりやすく解説

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ミロシェヴィッチ後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 14:18 UTC 版)

オトポール!」の記事における「ミロシェヴィッチ後」の解説

10月5日ミロシェヴィッチ退陣英語版)の後の数ヶ月で、オトポール!メンバーたちは不意にユーゴスラビア全土のみならず西側諸国政府からも英雄として祭り上げられようになった握り締めた拳のロゴ手っ取り早く賛意を示す印になり、いたるところ現れた。地方名士政界大立者は、オトポール!Tシャツ着けることで支持集めようとしたし、KKパルチザンバスケットボールクラブまでがFIBA Suproleague(英語版)の試合センターサークルオトポール!ロゴ描いたりと、握り締めた拳のロゴはごくありふれた存在となったこのように広範に支持されたため、前政権と結びついていた人々までがセルビア民主野党連合英語版) (DOS) の有力者取り入ろうとして、オトポール!その活動持ち上げようになった、という逸話もある。 MTV取り上げ2000年ストックホルムでのMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードで、オトポール! に「Free Your Mind」賞が贈られた。 賞賛の渦の中で、運動汚職監視新たな課題として、継続されることになったいくつかの汚職キャンペーン (「Samo vas gledamo」、「Bez anestezije」など) が開始された。しかし、オトポール!変転するユーゴスラビア政治シーン中に位置占めつづけるには、いくつかの困難があったのも確かである。 一部著名な活動家が自らの政治的外交的な功績追い求めて運動実質的に放棄し洗いざらしの黒シャツ脱ぎ捨てて高級ブランドスーツを着けるようになると、反動非難のきざしが見え始めた。たとえばスルジャ・ポポヴィッチ(英語版)(かつては冗談まじりに「オトポール!コミッサール」を自称していた)の場合である。2000年12月下院議員選挙英語版)でDOS名簿登載されて当選しDOS参加していた民主党下院議員となったほか、ゾラン・ジンジッチ率いセルビア新政府環境問題アドバイザーにも就任した多く人々が、これをポポヴィッチへの論功行賞見た。 またこの頃から、オトポール!国外勢力から資金戦術両面援助を受け、それが革命招いた、との情報見られるようになってきた。ある活動家グループ2000年6月隣国ハンガリーブダペストへ赴き、ジーン・シャープ同僚である米陸軍退役大佐ロバート・ヒルヴィーから講義受けた。この講義持たれた頃には、運動はすでに最高潮達していたのだが、彼は後にオトポール! の「生みの親」に擬されることになる。オトポール!また、全米民主主義基金 (NED)、共和党国際研究所(英語版) (IRI)、合衆国国際開発庁 (USAID) といった、米国政府提携している組織からの資金助成受けてもいた。 『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の2000年11月記事で、米国人ジャーナリストロジャー・コーエン(英語版)は上の諸組織役員とともにオトポール!米国から受けた援助規模について語っている。ワシントン特別区ポール・B・マッカーシー (NED所属) は、1998年9月から2000年10月の間にNEDセルビア支払った300万米ドル大半オトポール!受け取った、と述べた同時期にマッカーシー自身オトポール!指導者たちと繰り返し会合持った (ポドゴリツァのほか、セゲドブダペストでも)。 USAIDは、2000年中に2500万米ドルミロシェヴィッチ打倒目的充てたが、そのうちどれくらいオトポール!行ったかは定かではないドナルド・L・プレスリーUSAID副長官)は、数十ドル直接オトポール!回った語っている。名目は「示威行動支援物資Tシャツステッカーなど」であったという。オトポール!指導者たちは、そのほかに多く内密の --- ワシントン語りたがらないような --- 援助受けたことをほのめかしている。 共和党国際研究所職員のダニエル・カリンゲルトは、オトポール! が同研究所から支払われたおよそ180万米ドル2000年の間に受け取っていたと話した。カリンゲルトはまた、1999年10月以降オトポール!指導者にモンテネグロ当時ユーゴスラビア連邦構成国であった)やハンガリーで「7回ないし10回ほど」会ったとも話した。 こういった諸々情報が、国内大衆不興を買うことになった自発的な草の根民衆による運動という、広く流布していたオトポール!イメージ損なわれた。オトポール! への大衆見かたは、かつては純朴な若者運動というものであったが、いまやすっかり、多く疑問符のつく存在へと変わってしまった。 オトポール! がミロシェヴィッチ後の数年間で衰退した最大原因は、彼らが一貫した政治プログラム提示できなかったことにあった。反ミロシェヴィッチ活動広範な賞賛受けた。しかしその後に、人々明確な政治信条支持する段階になると、--- 急速に支持失った。つまり、オトポール! が何に反対しているかは常に明確であったが、旧体制瓦解したあとにこの運動がなにを成そうとするのかは明解ではなかったのである2003年後半国会議員選挙にあたりオトポール!結局政党模様替えしたが、これはオトポール! 終焉へ前触れであった。チェドミル・チュリッチ(英語版率いる「オトポール—自由・連帯正義」の候補者名簿は、2003年12月総選挙英語版)でわずか62,116票(得票率1.6パーセント)しか獲得できず、国会議席失った(最低必要得票率は5パーセント)。 最終的に2004年9月ボリス・タディッチ民主党吸収された。

※この「ミロシェヴィッチ後」の解説は、「オトポール!」の解説の一部です。
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