マーシアの権勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 02:55 UTC 版)
「エゼルバルド (マーシア王)」の記事における「マーシアの権勢」の解説
エゼルバルドの治世にマーシアは復権を果たし、それは8世紀の終わりまで続いた。エゼルバルドの次に王となったが在位が一年にも満たなかったベオルンレッドを除けば、マーシアはアングロサクソン列王の中でももっとも強力な二人の王、エゼルバルドとオファにより80年間統治された。こうした長期政権は当時稀で、例えばノーサンブリアでは同じころ11人の王がおりその多くが暴力による死を迎えている。 エゼルバルドは731年までにイングランドの南半分、ハンバー川以南を手中に収め大君主(大王、上王、overload)となった。エゼルバルドと従属する下位の王たちとの関係性を直接的に示す資料はほとんど残されていない。一般にエゼルバルドのような上王に従属する王も依然「王」とみなされるが、その自主性は多方面で制限される。勅許状 (charter)はこうした関係性を探る重要な資料で、従者や教会の人間に土地の所有などを認める文書であり、その土地所有を許可する権限のある王が文書の証人となる。従属的王の領地内にある土地の所有を許可する勅許状には、その従属的王のみならず上王の名も証人一覧に記載される。こうした証人一覧は例えばイスメレの勅許状などにもみられる。勅許状に記載された王の称号も関係性を確認する手掛かりとなり、従属的王は"subregulus" "underking"などと称される。 イングランド南部の2国、ウェセックス王国とケント王国への侵攻についてはその過程を確認するのに十分な資料が残されている。エゼルバルド治世の初期、ケントにはウィトレッド (Wihtred)、ウェセックスにはイネという二人の強力な王がいたが、ウィトレッドは725年に死去し、イネは726年に退位してローマへ巡礼の旅に出た。『アングロサクソン年代記』によれば、イネの死の同年、エゼルヘルドとウェセックス初期の王チェウリンの血を引くオズワルド (Oswald)というエアルドルマンとの間で王位をめぐる争いがおこり、最終的にこの戦いで勝利したエゼルヘルドがその後マーシアの権威に従属してウェセックスを統治したことが示されている。したがって、エゼルバルドはエゼルヘルドおよび739年に王位を継承したクスレッドの即位を手助けした可能性がある。720年代はじめにサセックス(南サクソン)がウェセックスから離脱したことを示す資料もあり、これは同地域でエゼルバルドの影響力が高まったためとする説もあるが、ウェセックスの力が弱まったのはマーシアではなくケントの影響とする説もある。 ケント王国では、エゼルバルドがケントの教会の擁護者であったことがケントで発行された勅許状に示されている。エゼルバルドがケントの土地所有を承認したという勅許状は見つかっておらず、エゼルベルト2世(Æthelbert II of Kent)やエアドベルト (Eadbert I of Kent)らケント王がエゼルバルドの同意を得ることなく土地の承認を行っていた。これは単にエゼルバルドが上王であることを示す勅許状が残っていないだけであろうが、一方でエゼルバルドがケントに及ぼした影響を直接示す証拠は何もない。 エセックスでの出来事に関する情報は比較的少ないが、この頃からロンドンはエセックスではなくマーシアに帰属するようになったとみられる。エゼルバルドの前の3人の王、エゼルレッド、コエンレッド、ケオルレッドはそれぞれ東サクソンの勅許状でトゥイッケナム所領をロンドン司教ワルドヘレ (Waldhere)に認めている。ケントの勅許状では、エゼルバルドがロンドンの支配権を握り、これ以降マーシアに帰属したものとみられ、オファの初期の勅許状でもハーロウ所領に関するものがあるがエセックス王の名は証人欄にすら見られない。南サクソン(サセックス)に関してはほとんど勅許状が残っていないが、ケントと同様土地の承認にエゼルバルドの同意を必要としていなかったことが分かっている。ただし資料がほとんどないとしても、同時代の年代記者ベーダが南部イングランドの司教を列挙した上で「これらの国全部およびハンバー川流域までのそのほかの南部諸国は、各自の王と一緒にマーシア王エゼルバルドに服属した」と述べた事実は変わらない。 エゼルバルドが王権維持のため戦争をしたことを示す資料がある。733年エゼルバルドはウェセックスへの遠征を行いサマトン (Somerton) の荘園を手にいれた。『アングロサクソン年代記』にも740年にクスレッドはエゼルヘルドから王位を継承し「大胆にもマーシア王エゼルバルドに戦いを挑んだ」との記述がある。3年後クスレッドはエゼルバルドと共にウェールズと戦ったとされる。これはマーシアがクスレッドに賦課した軍役とみられ、7世紀の強大なマーシア王ペンダとウルフヘレも下位の王に同様のことをした。752年エゼルバルドとクスレッドは再び敵対し、ある写本によればクスレッドはバーフォードで「彼(エゼルバルド)を敗走させたという。エゼルバルドは存命中のうちに西サクソンへの権威を復活させたとみられ、後代のウェセックス王キュネウルフの名が即位間もない757年のエゼルバルド勅許状の証人欄に見ることができる。 740年にはピクト人とノーサンブリアとの間で戦争があった。エゼルバルドはピクト人の王オェングス (Óengus I of the Picts) と同盟を組んだ模様で、王エアドベルト (Eadberht of Northumbria) 不在の隙をついてノーサンブリア国土を荒らし、おそらくはヨークを焼き払った。
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