マーシアの貴婦人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 07:16 UTC 版)
911年に夫が亡くなると、エセルフリーダはMyrcnah lædige すなわち「マーシアの貴婦人(女性領主)」となった。歴史学者のイアン・ウォーカーは、彼女の継承を、アングロサクソンの歴史における王国の女性支配者の唯一の事例であり、「中世初期において最もユニークな出来事の1つ」であると説明している。この時代のウェセックスでは、王室の女性が政治的役割を果たすことは許されなかった。アルフレッド大王の妻は女王の称号を与えられておらず、チャーター(勅許)の証人の役割を果たすこともなかった。一方でマーシアでは、アルフレッドの妹のでマーシアのブルグレッド王の妻のエゼルスウィスが彼女は女王としてチャーターの証人となり、夫と共同で自分の名前で助成金を出すなど、女性貴族にも一定の政治参加の伝統があった。エセルフリーダが「マーシアの貴婦人」として統治を行った背景には、このようなマーシア特有の政治文化があったとされる。 エゼルレッドがの死後、エドワード長兄王はマーシアにおけるロンドンとオックスフォード、そしてアルフレッド大王がマーシアの支配下に置いていた後背地を支配下に置いた。イアン・ウォーカーはエセルフリーダはマーシアでの自らの地位を弟に認めさせ、その見返りに領土の一部を明け渡したのではないかと示唆している。アルフレッド大王はウェセックスに要塞などの防御施設のネットワークを構築したが、子供のエドワード長兄王とエゼルフレダは共にその防御を強化し、バイキングへの攻撃に備えた。フランク・ステントンはエドワード長兄王とエゼルフレダとの関係について次のように言及している「エドワード長兄王の主要な業績である南デンマークへの遠征は、マーシアを守るエセルフリーダの存在なしにはあり得なかった」。 エセルフリーダは、910年にブレメスバラと呼ばれる街の防壁を強化した。912年にはセバーン川と支流が交差する地点を抑えるためにブリッジノースに守りを固め、翌913年には、彼女はタムワースに砦を建設してレスターに根拠地を置くデーン人の攻撃を防ぐとともに、スタッフォードにトレントバレーに繋がる交通路を支配下に置いた。914年、グロスターとヘレフォードから進軍したマーシア軍がブルターニュのバイキング勢力を撃退した。ノーサンブリアやチェーシャーからの侵略からに対抗するためにエドディスベリーの砦が修理され、またウォーリックはレスターのデーン勢力に備えるために要塞化された。 915年、チャーベリーはウェールズとランコーンをつなぐマージー川のルートを守るために強化された 。 917年、エセルフリーダはダービーを攻撃し、三つの勢力からなるヴァイキング軍を壊滅させた。ダービーは、レスター、リンカーン、ノッティンガム、スタンフォードとともに、デーンロウの五大都市の1つであった。彼女はこの戦いで「忠実な四人の家臣」を失ったとされる 。 エセルフリーダを「有能な戦争指導者」と表現する歴史家のティム・クラークソンは、ダービーの戦いを「彼女の最大の勝利」と見なしている。この年の年末には、イーストアングリアのデーン人勢力はエドワードに敗北した。 918年初頭、エセルフリーダはレスターの所有権を獲得し、その周辺のデンマーク軍のほとんどが彼女に服従した。数ヶ月後、デンマーク統治下のヨークの有力者はおそらくアイルランドからのヴァイキングからエセルフリーダの庇護を確保するために、彼女への忠誠を誓うことを申し出たが、彼女はその申し出を受ける918年6月12日に死亡したと記録されている。 アイルランドの年代記(Three Fragments)によると、918年、ノーサンブリアでのコーブリッジの戦いで、ノース系バイキングの指導者ラグナルが率いる部隊に対して、エセルフリーダがスコットランド軍とノーサンブリアのイングランド軍による連合軍率いたとされているが、多くの歴史家は後世の創作だと考えている 。
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