デーン人との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 07:00 UTC 版)
「アルフレッド大王」の記事における「デーン人との戦い」の解説
当時ウェセックス王国はイングランド東部に定着したデーン人から攻撃を受けていた。エゼルベルフト王が死去した後、865年エゼルレッド王が即位するとともに、アルフレッドは副将となり、公務を担うようになった。867年、義兄マーシア王ブルグレドの要請でエゼルレッド王とともに出陣し、初陣を飾った。 871年、アッシュダウンの戦いでエゼルレッド王とともに戦い、勝利を収める。しかし、エゼルレッド王がこの戦いで受けた傷が悪化し死去。賢人会の決定によりアルフレッドが即位する。 875年にウェセックス勢が初めて海戦で勝利を収めると、翌876年にはスオニッジの海戦でデーン人の戦艦120隻を沈めるという大勝利を得た。しかし878年デーン人にアルフレッドの居たチップナムを急襲され、アルフレッドは天然の要害であったアセルニーに退いた。そこに要塞を建設し、召集兵を再編成、反撃の準備を行った。 同年、エサンドゥーンの戦い(英語版)(古英語: Battle of Ethandun、現在のウィルトシャー州エディントン(英語版)付近)でデーン人を破りウェセックスを奪還した。同年のウェドモーアの和議で平和条約を締結し、彼らの勢力範囲をイングランド東北部のデーンロウにとどめ、イングランド統一の基礎を築いた。 アルフレッドは兵役の交代制を導入するなどの軍政改革を進めた。また、敵の戦術を研究し取り入れたり、情報収集に長けていたとも言われている。デーン人の船を参考としたアルフレッド型軍艦を建造させ、フリースラントなどから水夫を呼び寄せ、海軍を創設した。アルフレッドが英国海軍の父と呼ばれるのはこれが起源である。これらが功を奏して、アルフレッドはデーン人を退けることができた。 882年には4隻の軍艦と海戦し、これに勝利する。886年にはロンドンを奪回。893年以降もデーン勢とたびたび交戦するが、全て撃退しておりアルフレッドの平和を脅かすほどではなかった。なお、デーンロウが回復するのはアルフレッドの2人の子、エドワード長兄王とマーシアの貴婦人エゼルフリダの時代になってからである。
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