デーヴァダーシー、反ダンス運動、植民地禁止と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 06:11 UTC 版)
「バラタナティヤム」の記事における「デーヴァダーシー、反ダンス運動、植民地禁止と衰退」の解説
一部の植民地時代の学者や現代の著者は、バラタナティヤムは古代デーヴァダーシー文化の生き残りだと主張し、紀元前300-西暦300年に遡る歴史的起源を示唆している。現代の学問は、直接的な文書または考古学的証拠の欠如からこの学説を疑問視している。歴史的な彫刻と文書は踊り娘のほか女性を祀る寺院の何割かを説明描写しているが、植民地時代初期のインド学者が主張したような、遊女や娼婦だとは述べられていない。証拠の検討では、遊女舞踊がタミル地方の16世紀後半または17世紀ナーヤカ朝時代に始まった近代の現象であることが示唆されている。ジェームズ・ロクテフェルトによると、バラタナティヤムは19世紀の間ずっとヒンズー教寺院だけで行われており、寺院外の舞台に現れたのは20世紀に入ってからだった。さらに、タンジャーヴール・マラーター王国の支配者はバラタナティヤムを後押しして献金していた。 18世紀に東インド会社がやって来て、19世紀にイギリスの植民地支配を受けたことで、様々なインド古典舞踊様式が嘲笑されたり冷遇され、これらのパフォーマンスアートが衰退した。キリスト教宣教師と英国高官は、インド北部カタックの踊り娘 (Nautch) とインド南部バラタナティヤムの踊り娘デーヴァダーシーを「娼婦で、低劣で卑猥な文化で、偶像や司祭への奴隷」という伝統の証拠として提示し、宣教師はこれを止めさせるべきだと要求して、1892年に「舞踊反対運動」を開始した。舞踊反対陣営は、このダンス様式を売春の前線として非難し、復活派は構築された植民地時代の歴史に疑問を呈した。 1910年、英領のマドラス管区は寺院舞踊を完全に禁止し、ヒンズー教寺院でのバラタナティヤムの伝統も禁じられた
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