デーンゲルドと権力強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 09:33 UTC 版)
「クヌート1世 (イングランド王)」の記事における「デーンゲルドと権力強化」の解説
デーン人のイングランド王としてのクヌートは、強大なウェセックス王朝の生き残りからの、予想される抵抗を素早く排除した。彼の治世の初年には、彼が疑わしいと考えた多くのイングランド貴族が処刑された。エゼルレッドの息子エドウィ・アシリング(英語版)はイングランドから逃れたが、クヌートの命令で殺された。エドマンドの息子達も同様に国外に逃亡した。エゼルレッドとエマ・オブ・ノーマンディーの息子達は、ノルマンディー公国の親族の保護を受けた。 1017年7月、クヌートはエゼルレッドの未亡人にしてノルマンディー公リシャール1世の娘であるエマ・オブ・ノーマンディーと結婚した。エマとの結婚には、悪化していたデーン人とノルマンディー公国の関係を修復する意味も含まれていた。 1018年、全国で徴収し7万2千ポンドに達した総額に加え、ロンドンで徴収した1万5百ポンドという莫大な額のデーンゲルド(英語版)を集金したクヌートは、軍隊に賃金を払って解雇し、彼らの殆どを帰国させた。彼は40隻の船とその乗組員をイングランドの常備軍として保持した。エゼルレッドが1012年に、彼に仕えたスカンディナヴィア人らに見返りを与えるために制定したものと同じシステムを利用し、heregeld (軍隊への給与) と呼ばれる年税が徴収された。 クヌートは、複数のシャイアが1人のエアルドルマン(英語版)の下にまとめられるという既存のイングランドの傾向に基づいて、イングランドを4つの大きな行政単位に分割し、その地理的範囲は、イングランド統一に先立つ独立した諸王国の中で最も大きく、かつ耐久性のあるものを基準とした。これらの領地を担当する役人はen:Earlに指名された。ウェセックスは当初クヌートの個人的な支配下に置かれた一方、ノーサンブリアはエイリーク・ハーコナルソンに、イースト・アングリアはトルケルに、マーシアはエアドリックの管理下に委ねられた。 この最初の権力配分は長くは続かなかった。慢性的に不誠実であったエアドリックは、クヌートの即位後1年以内に処刑された。マーシアはその地の有力な家系の一つに引き渡され、最初はおそらく、エゼルレッドの下でウィッチェのエアルドルマンであったレオフウィン(英語版)に、そしてすぐに彼の息子のレオフリック(英語版)に受け継がれたとされる。1021年にはトルケルが失墜し追放された。1030年代までにはクヌートによるウェセックスの直接統治が終わると共に、サセックスの豪族出身のイングランド人ゴドウィンの下に伯爵の地位が置かれた。一般的に、治世の最初の数年間はスカンディナヴィア人の家臣に頼っていたが、のちにクヌートは、彼の信頼を得た既存のイングランド貴族のアングロサクソン系一族に、伯爵領の統治を担うことを認めた。斯くしてクヌートは、侵略者として弾圧するよりも現地の貴族等と協力した統治を進めた。
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