マーシア王国による征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 16:50 UTC 版)
「ウェセックス王国」の記事における「マーシア王国による征服」の解説
アングル人のマーシア王国の勢力拡大に伴い、攻撃を受けていたサクソン人のウェセックス王国はテムズ川、エイヴォン川以北を侵食されつつあり、このような動きにウェセックス王国は南部領土の建て直しを計る事となる。チェンワルフはマーシア王ペンダの娘と婚姻を結んだが、やがてそれが離縁となると再びマーシア王国が侵略、彼は3年ほど国を棄てて亡命する事となる。この時期は定かではないが、恐らくは640年代後半ないし650年代前半と考えられている。この時期ウェセックス王国はマーシア王国の支配下に入る事となった。 チェンワルフはイースト・アングリアに身を寄せて、この地でキリスト教に改宗をした。そして彼がウェセックスに戻リ王に復位すると、今度はペンダの後継者ウルフヘレの攻撃を受けてしまう。しかしウェセックス王国はブリトン人を討伐して領土をサマーセットまで拡大する事に成功する。そしてウィンチェスターに司教区を築いた。また、その直後に古来の司教区だったドルチェスターがマーシア王国の圧力に押され放棄される事となり、こうしてウィンチェスターはウェセックス王国の事実上の首都として今後発展を遂げる事となる。
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