ボールズブラフ
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「チャールズ・ストーン」の記事における「ボールズブラフ」の解説
詳細は「ボールズブラフの戦い」を参照 1861年10月20日、ストーンはジョージ・マクレラン少将からポトマック川を渡って偵察を行い、バージニア州リーズバーグにおける南軍の動向を報告するよう命じられた。マクレランはまたこの行動が、前日にドレインズビルに向けて動いたジョージ・A・マッコール准将の師団(総勢13,000名)の動きと組み合わされて、戦闘が起こること無しにその地域から南軍撤退を促すことを期待した。この状況に関してマクレランの参謀からストーンに与えられた命令の概要は次の通りだった。 マッコール将軍は昨日ドレインズビルを占領し、現在そこにいる。そちらから今日あらゆる方向に威力偵察を行われたし。将軍は、貴方がリーズバーグを十分に見張り続ければその動きで敵を追い出す効果があることを期待している。恐らくは貴方の部隊が簡単な示威行動を行うことで敵を動かすことになるだろう。 この命令を受けたストーンは、必要な時には近くのマッコール軍から支援を得られると考えた。ストーンが知らなかったことは、マクレランが10月21日にはマッコール軍がラングレーの以前の陣地に戻るように命じていたことであり、ストーン部隊の支援を難しくしていたことだった。ストーン師団は約10,000名の勢力であり、リーズバーグからは約8マイル (13 km) のメリーランド州プールズビル周辺に駐屯しており、部隊の一部をポトマック川岸に点在させていた。ストーンは砲兵隊をポトマック川沿いのエドワード渡し場に移動させ、南軍が守る対岸の森に砲撃できるようにした。ストーンは次に3隻の小さな船で第1ミネソタ歩兵連隊の約100名を対岸に送り、彼等は何事もなく直ぐに戻ってきた。日没近くなって、ストーンは第15マサチューセッツ歩兵連隊から20名の小偵察隊を派遣し、リーズバーグ方面を探らせ、北軍の動きで期待する効果が有ったかを見極めようとした。川中にあるハリソン島から渡河したこの部隊はボールズブラフ(崖)をよじ登り、内陸1マイル (1.6 km) 足らずに少なくとも30名の南軍兵が宿営していると信じたものに遭遇した。偵察隊はハリソン島に午後10時頃に戻り、エドワード渡し場にいるストーンに伝令を送って報告した。 ストーンはこの報告に反応して、南軍が実際にリーズバーグから去っていると考え、さらに調べて見ることにした。午後5時にエドワード渡し場から直接川を渡る部隊を自ら指揮する一方で、チャールズ・ディブンス大佐とその第15マサチューセッツ歩兵連隊の半分(約300名)にはその夜に直接ボールズブラフに渡るよう命令した。ストーンの指示内容は「夜の闇に紛れて敵の宿営地まで密かに行軍して夜明けとともに攻撃して破壊し...島まで速やかに戻ること」とされていた。ディブンスはストーンの命令を実行し3隻の10人乗りという小さな船で困難な渡河を行い、これには4時間を要した。ストーンはまた、ディブンスに攻撃後の処置について、すなわちリーズバーグを守るか、ハリソン島に戻るかをその裁量に任せてもいた。ストーンは第15マサチューセッツ歩兵連隊の残りと第20マサチューセッツ歩兵連隊(ウィリアム・R・リー大佐)にもこの動きに加わるよう命じ、全体指揮は大佐でアメリカ合衆国上院議員のエドワード・D・ベイカーが執るよう命じた。ディブンスは宿営地が無いことが分かり(先の偵察隊は夜陰の中で明らかにトウモロコシの刈り束をテントと見誤っていた)、停止してストーンの指示を仰いだが、ストーンはリーズバーグに近付けと返事した。ディブンスがリーズバーグに接近すると実際の南軍宿営地を発見した。ディブンスはそこで留まり援軍を待つことにしたが、ベイカー隊が到着する前の午前7時に小競り合いが始まった。 南軍のネイサン・G・"シャンクス"・エバンス大佐はストーンに対抗することになる部隊を率いており、敵が渡河したことを知ったときにその2,000名の部隊を分割した。所属するうちの3個連隊はエドワード渡し場からリーズバーグに向かう道路を遮断してストーン隊に対処するように命じ、一方残り部隊はボールズブラフでベイカー隊と戦って破った。ベイカーは情報を送らなかったので、ストーンは戦闘が起こっていることを知らずに、その行く先が南軍に遮断されていることが分かるとエドワード渡し場に戻った。続いてハリソン島に行ってボールズブラフでの敗戦を知り、直ぐにマクレランに宛ててマッコール軍からの援軍を求めたが、近くにいると思っていたその部隊は実際には20マイル (32 km) 以上も離れた所にいた。 ストーンはボールズブラフで約1,000名の戦死、負傷、捕虜および溺死者を出し、一方南軍は160名足らずを失っただけだった。北軍の損失の中には現職の上院議員ベイカーも含まれていた。ベイカーは「4発の銃弾を受けて地に倒れる前に死ぬ」という戦死だった。ベイカーの戦死とボールズブラフの戦闘はストーンのその後に重大な影響を及ぼし、また南北戦争の遂行方法にも影響を与えることになった。マクレランは10月24日の戦闘に関する公式報告書で、「この災難は直接指揮を執った者が犯した誤りによって起こされたものであり、ストーンのせいではない」と言って、ストーン自身は敗北の責任がないものとしていた。
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