ボツリヌス菌テロ計画と石垣島セミナー
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「オウム真理教の歴史」の記事における「ボツリヌス菌テロ計画と石垣島セミナー」の解説
「オウム真理教の国家転覆計画」も参照 1990年3月、生物兵器となるボツリヌス菌を採取するために北海道釧路市、阿寒湖、奥尻島の土を採取したが、ボツリヌス菌は発見できなかった。1990年3月11日、ワシントンのホロコースト記念博物館が建設されることについて「いよいよユダヤ人、フリーメーソンが表面に出てきた」とし、彼らのオウムへの攻撃の目的はオウムの崩壊であると説いた。 遠藤がボツリヌス菌を入手して培養の目処がたつと、麻原は大量プラントの建設を指示した。この時、ボツリヌス菌(ボッチャン)を粉末にして日本全土に散布して、一気に大量ポアすると述べた。同年4月、教団幹部に「今回の選挙は私のマハーヤーナにおけるテストケースであった。その結果、今の世の中は,マハーヤーナでは救済できないことが分かったので,これからはヴァジラヤーナでいく。現代人は生きながらにして悪業を積むから,全世界にボツリヌス菌をまいてポアする」、中世ではフリーメーソンがペスト菌をまいたが、今回は「白死病」と呼ばれるだろうと無差別テロ計画(オウム真理教の国家転覆計画)を宣言した。教団内ではかねてから、現代人は死後三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に転生してしまうためこれを防がなくてはならない などと教え込まれていたため、信者は麻原に従って武装化に協力していった。 このボツリヌス菌散布による無差別大量ポア計画では、トラックによる全国散布が検討され、また出家信者や麻原の家族を石垣島へ避難することが検討された。早川がボツリヌス菌を全国に散布すると、在家信者はどうなるかと聞くと、麻原はそれなら石垣島セミナーを開こうということになった。 1990年4月16から18日にかけて石垣島セミナーを開催した。これは、「オースチン彗星(英語版)接近で日本は沈没するが、オウムに来れば救済される」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させ行き先も伝えないまま石垣島に連れて行った。東京、大阪、福岡の信者ら参加者1270人が船でやってきた。セミナーの当初の目的は、オウム真理教が計画をしていたボツリヌス菌散布によるテロから、オウムの信者を守ることであった。麻原は幹部らに、オースチン彗星の再接近の時、偏西風でボツリヌス菌は日本に撒かれるが、石垣島は偏西風が通らない、抗体をイニシエーションで与えると称した。 しかし村井秀夫、遠藤誠一らはボツリヌス菌の培養に失敗し、テロは実行されず、セミナーも途中で中止となった。参加費は30万円であったが、海岸のテントが宿泊先で、夜は豪雨でテントが飛ばされるところであった。翌日、「現在の東欧動乱は、1986年のハレー彗星の影響であり、今年のオースチン彗星の接近によって何かが起こる」と25分間の麻原の講話があっただけで帰路についた。帰りの船では「出家するのは今か、一ヶ月以内か、半年以内か」と聞かれ、答えた出家時期に応じて部屋割りされ、「出家しない」という選択肢はなかった。 この石垣島セミナーで入った資金は3億円とも数十億円とも言われる。このセミナーで多数の出家者と資金を獲得し、教団蘇生に成功した。これはその後「ハルマゲドンが起こる、オウムにいないと助からない」と予言を用いて危機感を煽って信者や出家者をかき集める方法の原点になった。 石垣島セミナー直後、麻原はボツリヌス菌によるテロを三度実行し、いずれも未遂に終わっている。1990年ゴールデンウィーク頃、新実、杉本、村井らが2台の2トントラックから粉末状のボツリヌス菌を、皇居周辺、米国大使館、創価学会本部、立正佼成会本部、防衛庁、霞ヶ関、渋谷・新宿の繁華街など東京各地で噴霧した。しかし、ニュースで報道されることもなく、被害不明によりテロは失敗した。5月中旬、二度目の噴霧も失敗した。ただし、強烈な異臭が発生したため、異臭をわざわざ教えてくれたドライバーもいた。1990年7月頃、ボツリヌス菌の培養液を、荒川にポンプを使って流した。通りかかった警官に職務質問された村井と新実は、免許証を確認され、撮影され、警官は液体のサンプルを持ち帰った。電話で報告を受けた麻原は「馬鹿かお前ら!」と叱責、ボツリヌス菌テロ計画は中止された。警察からは連絡がなかったので、ボツリヌス菌の培養には失敗していたとみられる。
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