ベストセラーとしての谷崎源氏
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「谷崎潤一郎訳源氏物語」の記事における「ベストセラーとしての谷崎源氏」の解説
この「谷崎源氏」は、以下のように当時としては一大ベストセラーとなり、「源氏物語ブーム」を引き起こした。 初期の計画時には3万部の売上を見込んでおり、営業部員は「5万部出せば成功」と考えていたが、結局初回配本は17・8万部となった。第1回配本後の追加注文だけで5万部もあり、多くの追加注文が殺到したために追加注文分の用紙の確保や印刷に手間取り、その結果月1回の配本を予定していたところが、第2回の配本が当初予定していた1939年(昭和14年)2月ではなく2か月遅れの1939年(昭和14年)4月になり、第3回の配本は1939年(昭和14年)6月になった。このように多く売れた結果、本書は1939年(昭和14年)を代表するベストセラーとなった。また、これによって大きな利益を得た中央公論社について、「年に4回社員に賞与が与えられた」「源氏物語に繋がるイメージを持ったゲンジボタルをデザインした社員バッジを新しく作り直して全社員に配付された」「税金対策のために35万円をつかって雨宮庸蔵を代表とする財団法人「国民学術協会」を設立した」といった様々なエピソードが伝えられている。また旧訳が完結した際、当時関西に居住していた谷崎は上京して中央公論社社員の労をねぎらい、一同を歌舞伎座に招待した。またこれとは別に、「生きている兵隊」による筆禍事件により1939年(昭和16年)8月に中央公論社を退社してしまっていた雨宮庸蔵を労うため、雨宮と装幀を手がけた画家の長野草風を偕楽園に招待している。谷崎の妻松子によると、当時すでに作家としての地位を確立し、それなりの収入のあった谷崎であるが、美食家であることと引っ越し癖のためしばしば転居していたことにより、谷崎はあまり裕福とは言えない経済状況にあり、さらにこの時期に最初の妻千代との間の娘鮎子の学費、2番目の妻丁未子が自立できるようにするための費用、自身の弟妹・3番目の妻松子の妹重子や信子・谷崎が引き取った松子と松子の前夫根津松太郎との子供たちである清治や恵美子の養育費や学費といった、収入を遙かに超える多額の出費が重なったため、差し押さえを受けることもあるほど苦しかったが、谷崎家の家計はこの『谷崎源氏』による多額の収入があって以後裕福になり、金銭的に困ることは二度となくなったという。 新訳についても、第3巻までの累計販売部数は25万部にのぼるなど大ベストセラーとなった。中央公論社社内では、戦後の物資不足や経済的な混乱による売り上げの低迷のため「出来るだけ本は出すな」とまでいわれていた状況が、この新訳が大いに売れたことによって解消することになった。また谷崎は、それまで数年間『宮本武蔵』などのベストセラーで文化人部門の長者番付の1位であった吉川英治を抜いて、その年の文化人部門の長者番付1位となった。新訳が完結した1954年(昭和29年)11月16日に、谷崎夫妻と中央公論社社長嶋中雄作が、玉上琢弥や榎克朗・宮地裕といった翻訳作業を手伝った若手の学者、口述筆記を手伝った伊吹和子、別巻に収録した隆能源氏の白描画を担当した大河内久男、中央公論社でこの新訳『源氏物語』の担当者であった滝沢博夫らを招いて、京都朝日会館のレストラン・アラスカにおいて晩餐会を行い、その後一同を祇園の茶屋「一力」に招待している。その後出版された挿画入豪華新書版についても、第1巻だけで7万5千部突破・第2巻6万5千部突破、新々訳については初版全巻累計127万8千部・重版を含む累計188万7千800部といった記録が残されている。 1999年(平成11年)11月現在、作家の手になる現代語訳で、文庫化されているものの累計発行部数は以下の通りとなっている。 与謝野晶子訳 角川文庫・3巻 172万部 谷崎潤一郎訳 中公文庫・5巻 83万部 円地文子訳 新潮文庫・5巻 103万部 田辺聖子訳 新潮文庫・5巻 250万部 橋本治訳 中公文庫・14巻 42万部 瀬戸内寂聴訳 講談社・10巻 210万部
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