プロボクシング黄金時代
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「日本のボクシング史」の記事における「プロボクシング黄金時代」の解説
1962年10月10日には、新人王の実績しかなかったファイティング原田が突如引退した矢尾板の代理挑戦でKO勝利を収め、7年10か月ぶりに日本に世界王座をもたらし、プロ野球のON砲、大相撲の大鵬らと並ぶヒーローとなった。この年、全日本ボクシング協会が改めて発足され、NBAはWBA(世界ボクシング協会)に改称した。 1960年代前半、日本にはかつてないボクシング・ブームが起こり、週に10本以上のプロボクシング中継があった(ボクシング中継#日本における歴史も参照)。関光徳や、原田、海老原、青木の元祖三羽烏、小坂照男、小林弘に加え、アマチュアからは川上林成、高橋美徳らがプロに転向した。TBSが極東ジムと提携して募集した「ボクシング教室」には7,000人が殺到し、沼田義明や石山六郎を輩出した。 原田が王座を失った約8か月後の1963年9月18日、海老原が世界王者となるが、前王者との再戦で王座を失う。しかしこの間にカルロス・オルティス、エデル・ジョフレ、エディ・パーキンス、シュガー・ラモス、フラッシュ・エロルデらの世界王者が防衛戦のために訪日し、日本人挑戦者はことごとく敗れたものの、彼らの試合を観ることで日本のボクシングは向上していった。 1964年、桜井孝雄が東京オリンピックのボクシング競技で日本初となる金メダルをバンタム級で獲得。この頃には日本は世界有数のボクシング市場となっていた。 1965年5月18日、世界王者不在の時期を終わらせた原田は、同時に世界王座の2階級制覇を達成。限られた階級しかなかった当時、日本人として初であり、原田以前に2階級以上を制した王者は全階級を通じて世界に12人しかいなかった。原田が4度の防衛をする間、強打の藤猛、技巧派の沼田義明が世界王者となり、高山勝義、田辺清はいずれもノンタイトルで現役世界王者に勝利した。しかし田辺は世界タイトルマッチを目前に網膜剥離で引退を余儀なくされた。 1967年には王者・沼田と挑戦者・小林弘の間で初の日本人同士による世界タイトルマッチが行われた。試合は赤穂浪士討ち入りの12月14日に設定され、精密機械・沼田、雑草・小林と対照的な両者が舌戦を展開した。前半は沼田がジャブで攻勢をとるが、6回に小林の右クロスを受け、ダウンを喫すると形勢は逆転し、12回に再び右クロスで小林がKO勝利を収めた。この試合は日本の年間最高試合に選ばれている。1968年9月27日に西城正三がロサンゼルスで世界王者を下し、日本初の海外奪取を達成すると、1960年代後半から1970年代にかけての海外遠征ブームは加速していった。 この間、1968年メキシコシティーオリンピックではバンタム級代表の森岡栄治が銅メダルを獲得している。 1970年代 1970年12月11日から1971年7月28日までの時期は、小林弘、西城正三、沼田義明、メキシコで西城に続く2人目の海外世界王座奪取を成功させた柴田国明、大場政夫の5人が同時にプロボクシングの世界王座を保持し、フェザー級とジュニアライト級ではWBA・WBCの両団体世界王座を日本が独占していた。1970年末、11階級に15人いた世界王者の国別分布は、日本が5名、米国が3名、アルゼンチンとイタリアが各2名、フィリピン、メキシコ、英国が各1名であった。一階級違いの現役王者同士であった小林と西城は、1970年12月3日にノンタイトルマッチで対戦し、僅差で小林が勝利。この時期は「日本ボクシングの黄金時代」と呼ばれた。1971年夏から秋にかけて、小林、西城、沼田が次々と王座を失うが、10月には輪島功一が新たに世界王者となり、ルーベン・オリバレスに挑戦した金沢和良が名勝負を演じて日本の年間最高試合に選ばれ、王座流出の雪崩現象とは別に黄金時代は続いた。
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