フレデリックスバーグおよびチャンセラーズヴィル (1862年-1863年)
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「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「フレデリックスバーグおよびチャンセラーズヴィル (1862年-1863年)」の解説
詳細は「フレデリックスバーグの戦い」および「チャンセラーズヴィルの戦い」を参照 1862年11月7日、リンカーン大統領は、マクレランがシャープスバーグから撤退するリー軍を追撃しなかったことを理由に解任した。アンブローズ・バーンサイドがアンティータムでの軍団の指揮者としてその平凡な戦果にも拘らず、ポトマック軍団の指揮官に任命された。リンカーンは今一度、その将軍達にできるだけ早く攻撃を仕掛けるよう圧力を掛けた。バーンサイドがその任務を与えられ、直接南のリッチモンドに向けて進む作戦を立てた。バーンサイドはラッパハノック川をフレデリックスバーグで渡り、南軍とその首都の間に行くことで、リー軍の側面を衝くことを期待した。しかし、管理上の難しさがあったために、船橋を架けるための平底船が時間通りに到着することができず、またバーンサイド軍はフレデリックスバーグから軍が川を渡りきるまで待たねばならず、その間にリー軍が町の背後の高台の上に防衛線を構築する時間を与えてしまった。バーンサイドは諦めるでもなく、また他の方法を探すでもなく川を渡り、12月13日にリー軍の左翼にあたるメアリーズハイツに大規模な正面攻撃を掛けた。その攻撃を右翼に向けておれば成功した可能性があったが、そうはせずに防御を固めた高台に無益な波状攻撃を掛けた。北軍はその日に12,000名を失った。南軍の損失はかなり少なかった。 この敗北とワシントンでの当惑にも拘らず、バーンサイドはまだ指揮を外されなかった。フレデリックスバーグの南への攻撃作戦を立て直したが、1863年1月に不名誉な泥の行進というミスに繋がってしまった。この後、バーンサイドの部下の将軍達が徒党を組んでワシントンの政府に陳情し、バーンサイドは軍隊を指揮することができないと伝えた。この将軍達の一人がジョセフ・フッカーであり、1月26日にポトマック軍の指揮官に指名された。フッカーは以前の作戦で軍団の指揮官として秀でた戦果を挙げており、その冬の残りの期間は軍隊の再組織化と補給を行い、特に兵士の健康と士気に注意を払った。フッカーは自分の攻撃的な性格を知っており、リー軍に対する春の作戦計画を緻密に練った。 両軍は以前のフレデリックスバーグの戦いと同じ配置に付いた。フッカーはジョージ・ストーンマン配下の騎兵隊を南軍の後方に送ってその補給戦を混乱させようと考えた。1つの軍団がリー軍の注意をフレデリックスバーグに引き付けている間に、他の軍団が抜け出して密かに回り込みリー軍の背後から大群で押し包んで捕まえてしまおうというものだった。リー軍はロングストリート中将の軍団をバージニア南部へ食糧調達に派遣しており、勢力的に57,000名対97,000名と劣勢であった。 作戦は当初うまくいき、ポトマック軍の大部隊がラピダン川を渡って5月1日には配置に付いた。しかし、敵との小さな初期接触の後で、フッカーは自信を失い始め、作戦通り北部バージニア軍の背後を撃つよりも、チャンセラーズヴィルの防衛的な拠点に引く方を選んだ。5月2日、リーは戦争の中でも最も大胆な操軍を行った。自軍をフッカー軍の攻撃に備えて両翼に分けていたのだが、さらに兵力を割いてストーンウォール・ジャクソンに2万名の兵士を与え、フッカー軍の防備が薄い右翼に大きく回りこませた。ジャクソンの軍団はほとんど完璧な急襲を掛け、北軍のオリバー・ハワード少将の指揮する第11軍団を壊滅させた。ジャクソンはこの成功に続いて自軍の前線を偵察している時に友軍の銃火で瀕死の重傷を負った。 5月3日にリーがチャンセラーズヴィルの防衛線に繰り返し攻撃を掛けて損失を出している間に北軍のジョン・セジウィック少将指揮下の第6軍団がアンブローズ・バーンサイドがどうしても果たせなかったフレデリックスバーグのメアリーズハイツの軍勢を攻撃して成功した。この軍団が西方に移動し再度リー軍の後方を脅かした。リー軍はポトマック軍の両翼をあしらいながら怯んでしまったフッカーに防衛的な姿勢を取らせ、セジウィックの不確かな接近には1個師団を派遣した。5月7日までにフッカーは全部隊をラッパハノック川の北に撤退させた。リーにとって13,000名すなわち全軍の25%を失うという高価な勝利になった。フッカーの方は17,000名を失ったが比率としては小さかった。
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