ピーテル・デ・ホーホの画風とは? わかりやすく解説

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ピーテル・デ・ホーホの画風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 00:00 UTC 版)

ピーテル・デ・ホーホ」の記事における「ピーテル・デ・ホーホの画風」の解説

ピーテル・デ・ホーホ初期画風素材は、非番賭け事や酒、タバコを楽しむ兵士たち女中とのからみのようなもので、またアドリアン・ブラウエルをイメージさせるような人物の表情重点置かれ背景ぼやかすような画風であった。それが1656年から57年頃から急激に変化する透視画法遠近法)を用いた室内空間人物配置したような絵に変化していった。学者小林頼子1656年から57年頃はおそらくデ・ホーホがサミュエル・ファン・ホーホストラーテンフェルメール出会った時期そのことと関係があるのではないか推測するフェルメールの『兵士と笑う娘』はデ・ホーホの『カード遊びをする二人兵士パイプ詰める女』と構図がよく似ている。デ・ホーホはテーブル右側座った男の額の少し前方消失点設定し、窓を手前よりやや奥の位置から画面の端で途切れるようにして、奥の壁に近い位置にある窓との大きさ違い目立たないようにしている。また、正面奥にある壁と床面の交わる線が画面全体からみてあまり高くない場所にして、左後方奥行き暖炉立った女性描き込むことによってバランスのとれた空間後退表現している。ロンドンナショナル・ギャラリーにある『二人士官と女』はフェルメールの『紳士とワインを飲む女』を想起させる。『紳士とワインを飲む女』はフェルメールが左に偏って消失点をとりすぎたために手前左の窓が大きくなり、床面タイルがなんとなくゆがんで奥の壁際極端に小さくなってしまっているが、デ・ホーホの方はバランスのとれた画面構成となっている。 フェルメール兵士と笑う娘』 (ニューヨーク, フリック・コレクション) (1657-1659) フェルメール紳士とワインを飲む女』(1658-1661年頃) 『男二人給仕の女と杯を交わす女』(1658年頃) 『母親義務-母の膝にあたまを預け子供』(アムステルダム国立美術館, 1658-60年頃また、フェルメールの『兵士と笑う娘』はロンドンナショナル・ギャラリーにあるデ・ホーホの『男二人給仕の女と杯を交わす女』に用いられ部屋酷似している。正面奥の壁には北を左側横倒しにしたオランダネーデルランド)の地図があり、デ・ホーホが後ろ向きに立った女性描いた位置フェルメールはつばの広い帽子かぶった軍人思しき人物を座らせ、デ・ホーホが二人とぼけたような表情兵士描いた間くらいの位置に若い娘を座らせた。デ・ホーホは好んで正面左から射す光のモチーフ描いたが、『母親義務-母の膝にあたまを預け子供』(1658年頃)のように右手から射す光を用いた絵を描いたこともある。デ・ホーホが描いたオウム男女』(1668年)もフェルメールの『恋文』(1669 - 70年頃)に応用され両方とも手前部分暗くし奥の部屋はよく似たカーテン一部さえぎるように描かれている。デ・ホーホの場合男性女性であるが、フェルメール座っている女主人背後女中立っている構図である。 ピーテル・デ・ホーホは『戸口越し眺め』という画題呼ばれる半分開いた扉とそこから見え風景というモチーフ用いたフェルメールとデ・ホーホを結びつける直接文書聖ルカ組合登記簿であるが、ジョン・マイケル・モンティアスによるとフェルメール家の公証人つとめたフランス・ボーヘルトの記録のなかに、フェルメール義母マリア・ティンスの名前とともにデ・ホーホの名前が出てくると指摘する。デ・ホーホは自宅近所をときどき描いておりデルフト旧教会の塔が描かれているものみられる。またデ・ホーホはデルフト旧教会から100m以内の場所にある旧ヒエロニムスダール修道院へつながる通路である聖ヒエロニムスポールトの入口にある1614年年号刻まれた石の表札ないし銘板みられる絵、すなわち『デルフト中庭』など2点描いている。そのうち1点にはクレイパイプを吸うひげを生やしたと金属製のビールジョッキをもつ男、そのかたわらにワイングラス片手持って立っている女が描かれている。作家のアンソニー・ベイリー (w:Anthony Bailey) はフェルメールとデ・ホーホが話していてフェルメールの妻カタリーナそばにいるのを描いたではないか考えている。デ・ホーホの絵には母親と子供がよく描かれ母親家事切り盛りする姿や温かさといった美徳ないし理想像や、子供の躾や教育からめた題材選ばれていることがわかる。 フェルメール恋文』(アムステルダム国立美術館, アムステルダム, 1670年頃) 『あずまやのある中庭酒を飲む人々』(Figures Drinking in a Courtyard, 個人, 1658年)。旧ヒエロニムスダール修道院へつながる通路である聖ヒエロニムスポールトの入口にある1614年年号刻まれた石の表札ないし銘板みられる絵である。すなわち『デルフト中庭』と同じ場所を描いている。 『デルフト中庭』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー, 1658頃) 1661年以降アムステルダム時代には流行娯楽を楽しむ上流階級の生活を描くことが中心となり、上品ではあるが、美術史的にはデルフト時代のもののほうが意義があり、優れている評価されている。

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