ビル・クリントンの中道政策
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「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「ビル・クリントンの中道政策」の解説
ブッシュ政権下でも民主党の中道化は進行した。民主党指導者会議が民主党の政策を右方修正して中道に近付けようとするに連れ、テリー・マコーリフ(英語版)等、民主党内の中道及び保守派幹部が党の主導権を握るようになっていった。経済学者セバスチャン・マラバイ(英語版)によれば、民主党の政策は、1976年以降、次第に企業寄り、自由市場主義寄りに転じていっている。 自由市場の理想を擁護する民主党の議員は共和党とほぼ同程度になった。ジミー・カーターは大規模な規制緩和を推進し、民主党議員の多くもこれを支持した。ビル・クリントンは政府の監督が緩いシャドー・バンキング・システムの成長を主導し、不況期に制定された商業銀行に対する規制を廃止した。 1990年代に入ると、ようやく経済政策の右方修正等が功を奏し、民主党は復活を遂げた。1992年には、ビル・クリントンが当選を果たし、12年ぶりの民主党大統領となった。ビル・クリントン政権(英語版)では、議会はケネディ政権以来となる連邦政府予算の均衡を実現させ、健全なアメリカ経済を主導し、全国的に収入が増加した。1994年には、過去25年間で最も低い失業率とインフレ率を記録した。クリントン大統領はまた多くのリベラルな法律を制定した。特筆すべきは、銃を購入する際に5日間の猶予期間を設けることを定めたブレイディ法である。また、多くの種類の半自動火器の購入を禁止する法案も成立させた(2004年に期限を迎え、廃止された)。家庭および医療目的休暇法 (1993年)(英語版)は約4000万人のアメリカ人を対象とし、出産、または自身および家族の疾病時に、最長12週間の無給休暇を認めるものである。 外交面では、一時的ではあったが、ハイチの民主主義再建を助け、最終的には不首尾に終わったもののパレスチナとイスラエルの和平交渉(英語版)で強い主導力を見せ、北アイルランドの和平交渉(英語版)でも歴史的な停戦協定を仲介し、デイトン合意にこぎつけて旧ユーゴスラヴィアで4年近く続いていたテロと殺戮の日々を終わらせた。1996年の大統領選挙では、民主党の大統領としては1944年のフランクリン・D・ルーズベルト以来となる再選を果たした。 しかしながら、民主党は1994年の議会選挙では上院下院共に多数派の地位を失った。クリントンは共和党が提出した公的扶助改革(英語版)案に対して二度にわたって拒否権を行使したが、3回目に提出された個人責任・就労機会調整法 (1996年)(英語版)には署名を余儀なくされた。不法行為法改革(英語版)として提出された私募証券訴訟改革法(英語版)は、クリントンの拒否権行使にもかかわらず成立した。 労働組合は、1960年代以降、組合員の減少が続いており、この頃には民主党内部でも政治的影響力を失いつつあった。クリントンは労働組合が激しく反対していたカナダおよびメキシコとの北米自由貿易協定に署名した。リベラル派や進歩主義者の一部は、民主党の中道化の方向性に違和感を感じ、庶民の利益保護や左派的な問題が疎かになっていると批判し、これに対して民主党は進歩主義的な改革を続けているとの反論が交わされた。 1998年、共和党の主導により、下院においてクリントンに対し2つの嫌疑に関する弾劾決議が可決された。これらの嫌疑は、翌99年、上院において不問に付されたが、クリントン政権末期はスキャンダルのイメージを強く残す結果となった。この年、クリントンの指揮下、アメリカは、NATOによるユーゴスラヴィアへの軍事介入のための合同作戦軍に参加した。
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