ビル・クレムとトム・コノリー
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「1905年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ビル・クレムとトム・コノリー」の解説
この1905年にナショナルリーグ会長ハリー・ボーラムに認められてマイナーリーグから1人の審判員ビル・クレムがナショナルリーグに移ってきた。元は野球選手を志したが腕の故障で諦めて鉄鋼所に勤務する傍らセミプロで審判をしたりして、プロの審判員になったのは1902年で28歳であった。3年間マイナーリーグで経験を積んで1905年にナショナルリーグ審判員となった。以降引退する1940年まで「野球史上最高の審判員」としての名声と尊敬を集めた。引退後も1951年までリーグ審判部長を務め、在職中に死去した。 4年前の1901年にアメリカンリーグが創設された時に、ナショナルリーグの若い審判員トム・コノリーが引き抜かれた。1898年から1900年までナショナルリーグに所属し1901年からアメリカンリーグで1931年まで、34年間アメリカンリーグを代表する審判員となり、引退後も審判部長、ルール委員を務め1954年まで球界に貢献した。要職を去った1954年には84歳であった。 ビル・クレムとトム・コノリーは20世紀前半のメジャーリーグを代表する審判として高く評価されている。どちらもワールドシリーズでの審判員として出場が多く(ビル・クレムの18回出場は最高記録)、クレムが死去し、コノリーが去る前年の1953年に、野球の殿堂に初めて審判員として二人は殿堂入りした。
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