バンジャルマシンでの暮らし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 13:55 UTC 版)
「孫太郎」の記事における「バンジャルマシンでの暮らし」の解説
スールー諸島を出発してから42日目にして、孫太郎はバンジャルマシンに到着した。バンジャルマシンに着いた孫太郎はすぐに奴隷市場で売りに出された。客は先住民の有力者や華僑であったが、当時の先住民の間では「継ぎ首」という、親が死んだ際にその首を切って保存し、元の亡骸には別の人(奴隷)の首を切ってつなぐという習慣があった。そのため、孫太郎は華僑の家に買ってもらうべく、ある華僑の夫婦が通りがかった時に口をゆがめたり、眉をひそめてみせるなどのパフォーマンスを行った。このパフォーマンスが功を奏し、孫太郎はその華僑の家に30文で引き取られることになった。 夫婦の家は呉服、瀬戸物、雑貨などを売る大商人の家であった。夫婦はまだ新婚であり、主人はタイコン官(大根官とも)、妻は18歳でキントンといった。その他にも家にはタイコン官の弟のカンベン官とその母親、そして華僑の番頭が2人と下人が15人住んでいた。下人はほとんどが華僑があったが、男3人と女3人だけがマレー系のバンジャル人(英語版)で、孫太郎は特にこの下女3人と親しくなっていった。 主人のタイコン官一家は皆慈悲深い性格 であり、孫太郎は真面目に働いたので主人の信頼も篤くなっていった。孫太郎はやがてバンジャル語や潮州語も覚え、『漂夫譚』には両言語の1から10までの数詞が記録されている。また『南海紀聞』にはバンジャル語の歌が3つも記載されているほか、モスクで聞き覚えたアザーンの一説であるタフリールも正確に音写されている。 この他にも『南海紀聞』や『華夷九年録』には孫太郎が滞在中に起きた事件や出来事について事細かに記されており、当時のバンジャルマシンに人食いワニが出没した事件やイギリスや福州から来た船が海賊に襲われた事件についての記述がある。また、孫太郎はカンベン官と共にボルネオ内陸部のダヤク族の村を訪ねており、日本人として初めてダヤク族と接触している。 また文化、習俗についての記述も数多く、当時の華僑の年中行事や冠婚葬祭の習慣についても記述がある。例えば、孫太郎がタイコン官の家に来た時は丁度盂蘭盆の時期であったため、盂蘭盆について、 「門口にとふろふをともし、十三日の夕よりは盆會として、佛間をしつらひ、朝夕の靈具(りやうぐ)を備へ、家猪(かちよ)・羊・鷄肉を備へ、聖靈(しやうりやう)祭りとみえにける。十五日の夕は、寺の御堂の庭に、大成(なる)せがき棚を拵(こしら)へ置、町々の家々より五升・八升思ひ思ひ分限相應(ぶげんさうおう)に、飯を炊き、大鉢に高く盛り、五色の紙に其家の佛の法名を書付、竹の串にはさみ、飯の上に是をさし、菓子色々の肉ものを備へ、焼酒を器に入、せがき棚に供へける。寺より大勢僧出て、讀經有り。經終りて後、若者・子供等大勢集りて、備へし靈具(りやうぐ)を取爭ひ、持歸りて、家の羊や犬に喰せける。扨(さて)、十五日の夜は、前なる大川に、一町一町もやいにして、大筏(いかだ)に拵(こしらへ)て浮べ置、家々より大勢、ろうそく(原文ママ)をいくつともなくもやし、靈具(りやうぐ)とともに持出し、件の筏(いかだ)にならべ置、つなぎし筏(いかだ)を切はなせば、水にしたがひ流れ行。家々より蜜蠟(みつらふ)にして壹丁・貳斤がけのらうそく(原文ママ)をともしければ、風にも消やらで、水上よりも流れ來て、火の光幾千萬、遙の下迄みへ(原文ママ)渡り、目を驚す見物也」 【現代語訳=門口に燈籠のあかりをともし、13日の夕方から盆会として、仏間を飾り付けし、朝と夕方にお供え物や豚肉、羊肉、鶏肉の準備をした。これは聖霊祭りであると思われる。15日の夕方には、寺の御堂の庭に大きなせがき棚を設置し、町中の家々は5升(約9リットル 50合)あるいは8升(約14.4リットル 80合)とそれぞれの家の経済力に応じた量の米飯を炊き、それを大きな鉢に高く盛り付け、5色の紙にその家の故人の戒名を書き記し、竹の串にはさみ、米飯の上にそれをさし、菓子や様々な肉料理を準備し、焼酒を器に入れ、せがき棚に供えた。寺からは大勢の僧侶が出てきて、読経をして下さった。お経が終った後、若者や子供たちが大勢集まって、お供え物を奪い合って持ち帰り、それを家で飼っている羊や犬に食べさせた。そして15日の夜には、前にある大きな川に、1町(約109メートル)ずつもやい結びにした大きないかだを作って浮かべておき、家々よりろうそくをいくつも燃やし、お供え物とともに持ち出して、いかだに並べ置き、つなげてあるいかだを切り離せば、いかだは水の流れに乗って流れて行った。家々より蜜蠟にした1町2斤(約1.2キログラム)のろうそくをともせば、風が吹いても消えず、上流からも流れて来て、ろうそくのあかりが幾千万も、はるか下流まで見渡すことができ、目を見張る見物であった。】 — 『華夷九年録』 と記されており、15日の夜に明りの灯った船を川に流すところなど、日本の精霊流しとの共通点も見られる。
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