トボリスクでの軟禁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:43 UTC 版)
「アナスタシア・ニコラエヴナ」の記事における「トボリスクでの軟禁」の解説
4人の大公女達は二月革命勃発直後にはしかに罹り、その際に髪の毛を全部剃ってしまったためにまだ短い髪のままだった。ニコライ2世は母親のマリア皇太后や妹のクセニアに頻繁に手紙を書いたが、アレクサンドラは親友のアンナ・ヴィルボヴァらには熱心な信仰に関する思いを書き連ねていた手紙を送っていたものの、マリア皇太后には一通も手紙を送らなかった。母親に感化されていた娘達も祖母には一通も手紙を送らなかったと言われている。アレクサンドラがトボリスク滞在中にヴィルボヴァに書き送った手紙の一つには「アナスタシアが今、マリアもかつてそうでしたが、とても太ってがっかりしています。腰のところに肉が付いて円くなっていて足も短いのです。アナスタシアがもっと大人になればと願っています。オリガとタチアナは2人ともほっそりしています」と末娘の体型に対する不満が述べられている。 トボリスクでの捕われの身の不安や不確実性はアナスタシアと彼女の家族を苦しませた。1917年冬にアナスタシアは「さようなら」「私達のことを忘れないで下さい」と友人に宛てた手紙に書いた。また、ロバート・ブラウニング作の若くして亡くなった少女についての物悲しい詩『Evelyn Hope』を題材に「When she died she was only sixteen years old.Ther(e) was a man who loved her without having seen her but (k)new her very well. And she he(a)rd of him also. He never could tell her that he loved her, and now she was dead. But still he thought that when he and she will live [their] next life whenever it will be that・・・(彼女は亡くなった時、まだ16歳だった。彼女を見たことは無かったが、彼女についてとてもよく知り、愛した男がいた。そして彼女もまた彼について聞いていた。彼は彼女に愛していると伝えられず、そして今彼女は亡くなった。それでもやはり彼は2人が来世を生きる時のことを考えていた。・・・)」とスペルミスの目立つ英語で書いた手紙を彼女の英語の家庭教師に送った。 エカテリンブルクに到着したアレクサンドラが彼女とニコライ2世、マリアが到着後に検査されて物品が没収されたことを伝え、警告する手紙を送ってからはトボリスクに残った3人の姉妹はタチアナが中心となり、検査をパスする目的で自分の衣服に宝石を縫い付けた。彼女達の母親は予め決めておいた暗号で宝石を意味する「薬」の語を用いて「打ち合わせた通り、薬を処分しなさい」と彼女の専属のメイドのアンナ・デミドヴァが送った手紙の中で指示を出した。 グレブ・ボトキンはトボリスクでは一家が監禁されている建物の中に入ることは許されなかったが、水彩の動物画を何枚も描き、人に頼んでアナスタシアに届けてもらった。まもなく一家が他の地へ移送されることを知ったボトキンは公舎の敷地の周りを歩き、窓辺にアナスタシアが独りで立っているのを発見して手を振った。彼女も笑顔で手を振って応えたという。これが彼のアナスタシアの見納めとなった。ソフィー・ブックスヘーヴェデン男爵夫人(英語版)も「ある時、館近くの階段上に立っていた私は最上部の窓を開ける手とピンクの長袖の腕を目にしました。ブラウスから察するに、手は大公女のマリーかアナスタシアのものだったに違いありません。彼女達は窓から私を見ることが出来ませんでしたが、これが彼女達のうちのいずれかの姿を最後に見られたかもしれない光景になりました」と悲しいアナスタシアの見納めの情景を回想している。 アナスタシアは人生の最後の数ヶ月で気晴らしの方法を見付けた。1918年春に彼女は家族の他のメンバーと一緒に両親や他の人々を楽しませるために芝居を行った。英語の家庭教師を務めたチャールズ・シドニー・ギブス(英語版)によると、誰もが彼女の演技に大笑いしたという。エカテリンブルクに先に移った姉のマリアに書き送った1918年5月7日の手紙の中では自身の悲しみや弟アレクセイの病状が悪化することへの心配の気持ちを隠して「私達は大声で笑いながら(丸太で作った)ブランコで遊び、着地したのですが、とても気持ちが良かったんです! 本当に! 私は昨日、そのことについて何度も話したので姉達はうんざりしていたけど、私はまだその話をし続けることが出来ます。私達が経験した素晴らしい時間! 誰もが純粋に喜び叫ぶことでしょう! 」と述べ、喜びの瞬間を表現した。 トボリスク滞在時のアナスタシアの様子を記憶しているクラウディア・ビットナーは回顧録の中で次のように述べている。 「 アナスタシア・ニコラエヴナは皆と違い、やや無骨で粗かった。彼女は完全に不真面目だった。勉強に取り組んだり、予習しようとはしなかった。彼女はいつもマリア・ニコラエヴナと一緒だった。どちらも、まったくもって科学の授業で遅れを取っていた。彼女達は作文を書くことが出来なかったし、自分の考えを表現することに完全に不慣れだった。・・・アナスタシア・ニコラエヴナは基本的に子供っぽかったので、彼女は幼い女の子のように扱われていた。 」
※この「トボリスクでの軟禁」の解説は、「アナスタシア・ニコラエヴナ」の解説の一部です。
「トボリスクでの軟禁」を含む「アナスタシア・ニコラエヴナ」の記事については、「アナスタシア・ニコラエヴナ」の概要を参照ください。
- トボリスクでの軟禁のページへのリンク