デビュー〜1970年代とは? わかりやすく解説

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デビュー〜1970年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 16:04 UTC 版)

バグジー・マグロー」の記事における「デビュー〜1970年代」の解説

1967年黒人レスラートム・ジョーンズトレーニング受けてデビューデトロイトインディアナポリスなどの五大湖エリアから南部テキサスフロリダさらにはハワイなどNWAの各テリトリー転戦しリングネーム様々に変えてキャリアを積むフロリダでは覆面被りマスクマンザ・ビッグO(The Big "O" )に変身したが、マスク髪の毛賭けたコントラ・マッチジョー・スカルパ敗れ覆面を剥がされた。 その後ビューティフル・ブルータスBeautiful Brutus)と名乗るスキンヘッド巨漢ヒールとなり、ネブラスカ州オマハ拠点とするAWAミッドウエスト地区において、1968年カウボーイ・ボブ・エリスAWA中西部ヘビー級王座を争う。後の主戦場となるフロリダでは1969年9月3日マイアミにてグレート・マレンコ破りブラスナックル王座獲得した1970年からは太平洋岸のサンフランシスコ地区にてマイティ・ブルータスMighty Brutus)の名義活動1972年3月、このリングネーム日本プロレス初来日日本プロレス最後ワールドリーグ戦となった第14回大会参加している。ジャイアント馬場坂口征二大木金太郎トップ3には連敗したものの、吉村道明ミツ・ヒライなどの中堅勢からは勝利を収め外国人陣営ではゴリラ・モンスーンアブドーラ・ザ・ブッチャーディック・マードックカリプス・ハリケーンに次ぐ戦績残した1973年からはザ・ブルート(The Brute)に改名しカナダのバンクーバー地区参戦3月29日ジン・キニスキーからNWA太平洋ヘビー級王座奪取し以降シーン・リーガンジョージ・ゴーディエンコタイトル争った日本にもザ・ブルートとして1974年3月国際プロレス来日しており、ラッシャー木村グレート草津と金デスマッチ対戦3月31日には釧路にて、ジム・ブランゼル組んで木村&草津IWA世界タッグ王座金網タッグ・デスマッチで挑戦したシリーズ中は、国際プロレスに特別参戦していたジャイアント馬場とも度々対戦している。その後サンフランシスコ地区戻り1975年1月25日ピーター・メイビアから同地区認定のUSヘビー級王座奪取した1975年下期より、「ばい菌」「害虫」などを指す蔑称の "Bugsy" を冠したバグジー・マグロー(Bugsy McGraw)のリングネームWWWF登場キャプテン・ルー・アルバーノプレイング・マネージャー迎え9月6日ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンブルーノ・サンマルチノ対戦以降12月8日メリーランド州ランドーバー、翌1976年1月10日マサチューセッツ州スプリングフィールドにて、サンマルチノのWWWFヘビー級王座挑戦したWWWFではヒール中堅として、ゴリラ・モンスーンボボ・ブラジルヘイスタック・カルホーンチーフ・ジェイ・ストロンボーイワン・プトスキーなどのベビーフェイス勢と対戦ザ・ブラックジャックスブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ)、イワン・コロフアーニー・ラッドスーパースター・ビリー・グラハムスパイロス・アリオンといった大物ヒールパートナーにも起用されトニー・パリシ&ルイ・セルダンが保持していたWWWF世界タッグ王座にも度々挑戦した1976年終盤からはザ・ブルート名義中南部NWAトライステート地区出場11月から12月にかけてザ・スポイラーテッド・デビアスとトライステート版の北米ヘビー級王座争っている。1977年バグジー・マグローとしてオーストラリア遠征しブッチャー・ブラニガンマリオ・ミラノ組んでNWA豪亜タッグ王座獲得同年ジャイアント馬場海外遠征で来豪しており、4月1日シドニー、翌2日メルボルンにて、両者シングルマッチが行われた(結果はいずれマグロー反則負け)。 以降リングネームを「バグジー・マグロー」に定着させ、1978年4月には新日本プロレス第1回MSGシリーズ参加予選トーナメント1回戦山本小鉄2回戦トニー・ガレア破り決勝リーグ進出しアントニオ猪木藤波辰巳上田馬之助アンドレ・ザ・ジャイアントらと公式戦対戦した

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デビュー〜1970年代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 00:30 UTC 版)

マイク・ジョージ」の記事における「デビュー〜1970年代」の解説

地元ミズーリカンザス拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区プロモーター、グスト・カラスにスカウトされ1971年デビュージム・ブランゼルとの若手コンビ活動し1973年10月25日ロード・アル・ヘイズ&ロジャー・カービーから同地区認定NWA世界タッグ王座奪取。翌1974年3月21日にはブルドッグ・ボブ・ブラウンを破ってシングルのセントラル・ステーツ・ヘビー級王者にもなっている。 1975年4月全日本プロレスの『第3回チャンピオン・カーニバル』に初来日ジン・キニスキーキラー・コワルスキーミスター・レスリングマーク・ルーイン、そして特別参加ブルーノ・サンマルチノディック・ザ・ブルーザーという豪華メンバー集結したこのシリーズにおいてはグリーンボーイ扱いで、予選トーナメント1回戦高千穂明久敗退したものの、共に初来日した同世代ボブ・オートン・ジュニアスティーブ・カーンと共に次代を担う有望株として期待された。4月10日宮城県スポーツセンター行われたジャイアント馬場ディック・ザ・ブルーザーPWFヘビー級王座戦ではブルーザーセコンド務め馬場セコンドについていたジャンボ鶴田とも乱闘演じたその後もセントラル・ステーツ地区主戦場に、フロリダエディ・グラハム主宰チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)やジョージアジム・バーネット主宰ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)など南部テリトリー転戦フロリダでは1975年下期キラー・カール・クラップからNWA南部ヘビー級王座奪取している。本拠地中西部では1976年2月セントルイスガーデンシティカンザスシティの3か所でテリー・ファンクNWA世界ヘビー級王座連続挑戦カンザスシティでは同年10月21日にスーパー・インターン(トム・アンドリュース)と組んでマッドドッグ・バション&バロン・フォン・ラシクを、1977年12月1日にはスコット・ケーシー組んでクラッシャー・ブラックウェル&バック・ロブレイそれぞれ破りNWA世界タッグ王座再三獲得した1979年より、ビル・ワット主宰していたミッドサウス地区MSWA参戦ジェリー・スタッブスからルイジアナ・ヘビー級王座とミシシッピ・ヘビー級王座奪取し9月5日にはミスター・レスリング2号破り北米ヘビー級王座獲得ルイジアナミシシッピの両王座抗争相手マイク・シャープ・ジュニア奪われるが、9月28日にはボブ・スウィータン組んでミッドサウス・タッグ王座初代王者チーム認定されるなど、同地区タイトル総なめにした。

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