デビュー〜1970年代
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「バグジー・マグロー」の記事における「デビュー〜1970年代」の解説
1967年に黒人レスラーのトム・ジョーンズのトレーニングを受けてデビュー。デトロイトやインディアナポリスなどの五大湖エリアから南部のテキサスやフロリダ、さらにはハワイなどNWAの各テリトリーを転戦し、リングネームを様々に変えてキャリアを積む。フロリダでは覆面を被り、マスクマンのザ・ビッグO(The Big "O" )に変身したが、マスクと髪の毛を賭けたコントラ・マッチでジョー・スカルパに敗れ、覆面を剥がされた。 その後、ビューティフル・ブルータス(Beautiful Brutus)と名乗るスキンヘッドの巨漢ヒールとなり、ネブラスカ州オマハを拠点とするAWAのミッドウエスト地区において、1968年にカウボーイ・ボブ・エリスとAWA中西部ヘビー級王座を争う。後の主戦場となるフロリダでは1969年9月3日、マイアミにてグレート・マレンコを破りブラスナックル王座を獲得した。1970年からは太平洋岸のサンフランシスコ地区にてマイティ・ブルータス(Mighty Brutus)の名義で活動。1972年3月、このリングネームで日本プロレスに初来日、日本プロレス最後のワールドリーグ戦となった第14回大会に参加している。ジャイアント馬場、坂口征二、大木金太郎のトップ3には連敗したものの、吉村道明やミツ・ヒライなどの中堅勢からは勝利を収め、外国人陣営ではゴリラ・モンスーン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ディック・マードック、カリプス・ハリケーンに次ぐ戦績を残した。 1973年からはザ・ブルート(The Brute)に改名してカナダのバンクーバー地区に参戦、3月29日にジン・キニスキーからNWA太平洋岸ヘビー級王座を奪取し、以降もシーン・リーガンやジョージ・ゴーディエンコとタイトルを争った。日本にもザ・ブルートとして1974年3月に国際プロレスに来日しており、ラッシャー木村やグレート草津と金網デスマッチで対戦。3月31日には釧路にて、ジム・ブランゼルと組んで木村&草津のIWA世界タッグ王座に金網タッグ・デスマッチで挑戦した。シリーズ中は、国際プロレスに特別参戦していたジャイアント馬場とも度々対戦している。その後はサンフランシスコ地区に戻り、1975年1月25日にピーター・メイビアから同地区認定のUSヘビー級王座を奪取した。 1975年の下期より、「ばい菌」「害虫」などを指す蔑称の "Bugsy" を冠したバグジー・マグロー(Bugsy McGraw)のリングネームでWWWFに登場。キャプテン・ルー・アルバーノをプレイング・マネージャーに迎え、9月6日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノと対戦。以降も12月8日にメリーランド州ランドーバー、翌1976年1月10日にマサチューセッツ州スプリングフィールドにて、サンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑戦した。WWWFではヒールの中堅として、ゴリラ・モンスーン、ボボ・ブラジル、ヘイスタック・カルホーン、チーフ・ジェイ・ストロンボー、イワン・プトスキーなどのベビーフェイス勢と対戦。ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ)、イワン・コロフ、アーニー・ラッド、スーパースター・ビリー・グラハム、スパイロス・アリオンといった大物ヒールのパートナーにも起用され、トニー・パリシ&ルイ・セルダンが保持していたWWWF世界タッグ王座にも度々挑戦した。 1976年の終盤からはザ・ブルートの名義で中南部のNWAトライステート地区に出場、11月から12月にかけてザ・スポイラーやテッド・デビアスとトライステート版の北米ヘビー級王座を争っている。1977年はバグジー・マグローとしてオーストラリアに遠征し、ブッチャー・ブラニガンやマリオ・ミラノと組んでNWA豪亜タッグ王座を獲得。同年はジャイアント馬場も海外遠征で来豪しており、4月1日にシドニー、翌2日にメルボルンにて、両者のシングルマッチが行われた(結果はいずれもマグローの反則負け)。 以降、リングネームを「バグジー・マグロー」に定着させ、1978年4月には新日本プロレスの第1回MSGシリーズに参加。予選トーナメント1回戦で山本小鉄、2回戦でトニー・ガレアを破り決勝リーグに進出し、アントニオ猪木、藤波辰巳、上田馬之助、アンドレ・ザ・ジャイアントらと公式戦で対戦した。
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デビュー〜1970年代
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「マイク・ジョージ」の記事における「デビュー〜1970年代」の解説
地元のミズーリやカンザスを拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区のプロモーター、グスト・カラスにスカウトされて1971年にデビュー。ジム・ブランゼルとの若手コンビで活動し、1973年10月25日にロード・アル・ヘイズ&ロジャー・カービーから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取。翌1974年3月21日にはブルドッグ・ボブ・ブラウンを破ってシングルのセントラル・ステーツ・ヘビー級王者にもなっている。 1975年4月、全日本プロレスの『第3回チャンピオン・カーニバル』に初来日。ジン・キニスキー、キラー・コワルスキー、ミスター・レスリング、マーク・ルーイン、そして特別参加のブルーノ・サンマルチノとディック・ザ・ブルーザーという豪華メンバーが集結したこのシリーズにおいてはグリーンボーイ扱いで、予選トーナメント1回戦で高千穂明久に敗退したものの、共に初来日した同世代のボブ・オートン・ジュニアやスティーブ・カーンと共に次代を担う有望株として期待された。4月10日、宮城県スポーツセンターで行われたジャイアント馬場対ディック・ザ・ブルーザーのPWFヘビー級王座戦ではブルーザーのセコンドを務め、馬場のセコンドについていたジャンボ鶴田とも乱闘を演じた。 その後もセントラル・ステーツ地区を主戦場に、フロリダ(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)やジョージア(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)など南部のテリトリーも転戦。フロリダでは1975年下期にキラー・カール・クラップからNWA南部ヘビー級王座を奪取している。本拠地の中西部では1976年2月、セントルイス、ガーデンシティ、カンザスシティの3か所でテリー・ファンクのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。カンザスシティでは同年10月21日にスーパー・インターン(トム・アンドリュース)と組んでマッドドッグ・バション&バロン・フォン・ラシクを、1977年12月1日にはスコット・ケーシーと組んでクラッシャー・ブラックウェル&バック・ロブレイをそれぞれ破り、NWA世界タッグ王座を再三獲得した。 1979年より、ビル・ワットが主宰していたミッドサウス地区のMSWAに参戦。ジェリー・スタッブスからルイジアナ・ヘビー級王座とミシシッピ・ヘビー級王座を奪取し、9月5日にはミスター・レスリング2号を破り北米ヘビー級王座を獲得。ルイジアナとミシシッピの両王座は抗争相手のマイク・シャープ・ジュニアに奪われるが、9月28日にはボブ・スウィータンと組んでミッドサウス・タッグ王座の初代王者チームに認定されるなど、同地区のタイトルを総なめにした。
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