ディーゼルカーの一般化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:46 UTC 版)
「日本の気動車史」の記事における「ディーゼルカーの一般化」の解説
日本で気動車エンジンがディーゼル機関に本格移行したきっかけは、1940年に発生した、西成線(後の桜島線)安治川口駅でのガソリンカー横転火災事故とされる。189人もの死者を出したこの大惨事によって、発火しやすいガソリンを燃料に用いる危険性がクローズアップされた(西成線列車脱線火災事故も参照)。 日本では、第二次世界大戦直前から陸軍主導で戦車や自動車など軍用車両向けとして、規格設計による「統制型ディーゼル機関」と呼ばれる標準エンジンの開発が進められ、国内の自動車メーカー・エンジンメーカー各社において量産実績を重ねていた。水冷式・空冷式のいずれも存在したが、戦後鉄道用に用いられたのは原則として水冷式のみである。 また国鉄も戦時中まで気動車用ディーゼルエンジンの開発に取り組んでいたことで、ディーゼルエンジン技術の蓄積がなされていた。その結果、安全性と燃費に優れたディーゼルカーが、戦後に普及することになる。 この時期に日本のディーゼルエンジン開発が大きく進展した一因として、ディーゼル機関の性能を左右する燃料噴射ポンプの分野で当時世界最優秀だった、ドイツのロバート・ボッシュ社の方式による噴射ポンプが、1939年設立の「ヂーゼル機器」(社名変更を経て現・ボッシュ株式会社)でライセンス取得により国産化されていたことが挙げられる。ボッシュ式燃料噴射ポンプは、統制ディーゼル機関やDMH17系機関でも採用された。 既存ガソリンカーのエンジンを交換してディーゼルカー化する流れは、江若鉄道において1947年に、トレーラーバス用転用の統制ディーゼル機関を在来保有車に搭載したのが嚆矢である。江若鉄道の場合、前述の通り連合軍キャンプが沿線にあったため、燃料の特配が受けられたことで早期のディーゼル化が実現したが、この流れが他事業者にも本格的に普及し始めるのは燃料供給事情が好転した1950年以降である。この頃になると、統制型エンジンの流れを汲むいすゞ・日野の75 - 100 PS級6気筒を中心としたディーゼルエンジンが大型トラック・バスに普及し、部品供給面の改善(自動車業界の部品流通網が利用できた)や使用側の整備能力向上などインフラが整ってきたこと(戦時統制による企業統合で、多くの私鉄がバス部門を兼業するようになっていた)、さらにこのクラスのエンジンは私鉄に広く普及した12 - 16 m級中型気動車に適した性能であったことなどが背景にある。 ガソリンカーのディーゼル化は、1950年代に入ると国鉄を筆頭として全国的なトレンドとなり、1950年代末期までに零細私鉄での若干の例外を除けばガソリンカーは見られなくなった。また1951年以降は私鉄向けディーゼルカーの新規製造も再開され、徐々に盛んになった。 さらに、基本設計を終えながら燃料統制の影響で実用に供されていなかったDMH17系機関が、1951年から量産化され、国鉄気動車に搭載されるようになった。DMH17系は、当時の日本で気動車用大型エンジンとして実用可能な唯一の存在であったことから、以後国鉄・私鉄を問わず広く用いられるようになる。
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