チロの「活躍」は続く
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「チロ (犬)」の記事における「チロの「活躍」は続く」の解説
「星のチロ像」の製作の話とほぼ同時期に、チロにかかわるもう1つの計画が天文ファンの間で持ち上がっていた。それは、「星空への招待」会場に運び込むことができる世界一の大移動望遠鏡を第10回(そして最後の開催でもあった)にあたる1984年の「星空への招待」開催までに星仲間たちの力を合わせて手作りし、みんなで「チロの星」を見つけようというものだった。この計画を発案したのは大野で、第8回「星空への招待」開会挨拶のときに言葉に詰まり、「星になったチロちゃんのための口径84センチの大望遠鏡をこの会場で披露しようと考えています」などと言ってしまったことから始まった話でもあった。84センチメートルという数字は、「星空への招待」の最後の開催となる10回目が「1984年」に開催されるという理由からであった。 この計画は、日本全国の星仲間たちの間で大きな反響を呼んだ。ただし、計画されたのは反射凹面鏡の直径が84センチメートルに及ぶ大口径望遠鏡だったため、星仲間たちの誰1人としてそれほどの規模のものを作った経験がある者はいなかった。それに、そのような大型の望遠鏡用鏡材に使うガラスが入手できるかさえ不明であった。 困難と思われたこの計画を成功に導いたのは「なあに、チロのことだもの、きっとうまくいくさ」という合言葉の力であった。チロにかかわるさまざまな計画は、非常な困難と思われてもいつもちゃんと実現するのが常のことであった。星仲間たちはこの合言葉を信じて行動し、すぐにただ1枚だけ日本国内にあった「パイレックス」という反射望遠鏡の鏡面作成に向いたガラスが格安な値段で入手できた上に、浅草橋に住むガラス切り名人の老人が「お代はいらねえ、チロの望遠鏡とやらが完成したら土星の輪っか見せてくんねぇ…」などと言いながらガラスを円形に切り出してくれた。次の課題は、凹面鏡のカーブを削り出す作業だった。これも白河天体観測所近くの森にある給水塔のてっぺんから長い鉄棒を吊り下げてその先端にダイヤモンド付きのカッターを取り付け、振り子のように左右に振らせながら少しずつガラス材を削り込むという方法を採ったところ、わずか1日の作業で凹面鏡のカーブが完成した。続く凹面鏡のアルミメッキ作業も、仏具メーカーの協力を得てメッキ釜を借り、8,000円という破格の安値で仕上げることができた。 完成した凹面鏡と星仲間たちがそれぞれ手分けして作り上げた望遠鏡の部品は1984年の第10回「星空への招待」会場に運び込まれ、その場で組み立て作業が進められた。完成した「チロ望遠鏡」の巨大さは、組み立て作業に携わった星仲間たちでさえ驚くほどのものであった。その後、チロ望遠鏡はNHK教育テレビのジュニア大全科「実写星空図鑑」という番組で使用されて多くの視聴者に大望遠鏡が見せる星空の素晴らしさを伝えた。 後にチロ望遠鏡には車輪がとりつけられた。これは「星空への招待」会場だけではなく、日本各地で開催される天体観望会にも望遠鏡自身が自分の「足」で参加できるようにとの配慮であった。陸運局の許可と車両ナンバーをもらうときには、折しも大きな話題となっていたハレー彗星を引き合いに出して「全国の皆さんにハレー彗星を見てもらうためのキャラバンを実施するつもりです」と言ったところ運輸省からの特別の許可がすぐに下りた。 さらに口径60センチメートル、口径50センチメートル、および口径20センチメートルと小型のチロ望遠鏡も作られ、同じく日本全国に出かけるようになった。口径50センチメートルのチロ望遠鏡は日本航空の協力を得てジャンボジェットによってオーストラリアに空輸され、ハレー彗星のテレビ生中継で星仲間たちとともに活躍した。 チロに関しては、その存命中から別の計画が持ち上がっていた。その計画はチロが天文台長になったころからあったもので、赤道をはさんで地球の反対側にあたる西オーストラリアにももう1つの天文台を作ろうというものであった。オーストラリアの星仲間たちの協力を得て1995年にこの計画は実行に移され、チロを記念して「チロ天文台」と命名された。 資金面では藤井が執筆して80万部を売り上げた『星になったチロ』によるところが大きく、チロが日本とオーストラリアの星仲間たちの夢を実現させたという面もあった。チロ天文台の敷地はおよそ1万坪(約33,057.9平方メートル)で、甲子園球場並みの広さであった。オーストラリアのチロ天文台にも、白河天体観測所の30センチメートル反射望遠鏡とほぼ同じものが設置された。 1997年、スペースシャトル「コロンビア号」(STS-87)でチロは宇宙に旅立った。これはコロンビア号に乗り組み、日本人宇宙飛行士として初の船外活動を行った土井隆雄が、「チロを宇宙につれていってほしい」という星仲間たちの願いを受け入れて、チロのイラストを描いたステッカーを宇宙に持参したものであった。 オーストラリアのチロ天文台からは、コロンビア号の飛行を1晩のうちに2回も好条件で見ることができた。藤井とオーストラリアの星仲間たちは毎晩のように夜空を見上げながら、遥かな宇宙を飛び続ける土井とチロに手を振って声援を送っていた。土井はのちに白河天体観測所を訪問し、ともにSTS-87で宇宙に旅立ち、そして帰還を果たしたチロのステッカーを星仲間たちに手渡している。
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