チャック・ノールの時代
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「ピッツバーグ・スティーラーズ」の記事における「チャック・ノールの時代」の解説
1969年1月27日にチャック・ノールが37歳でヘッドコーチに就任すると、ドラフトで後にプロフットボール殿堂入りする選手を多く獲得した。彼が1969年にドラフトで最初に指名したのはDTのミーン・ジョー・グリーンだった。1969年は1勝13敗に終わったがそれによって1970年のドラフト全体1位指名権を得たチームはテリー・ブラッドショーを指名した。その年の3巡ではCBのメル・ブラント、1971年にはジャック・ハム、1972年にはRBのフランコ・ハリスを獲得した。 1970年にはチームにとって大きな出来事が2つあった。1つはAFLとの統合によって、AFC中地区に所属することになったこと、もう1つは本拠地をスリー・リバース・スタジアムに移転したことである。1972年には11勝3敗で地区優勝を果たし、地元で行われたオークランド・レイダースとのプレーオフでは、試合終了直前にハリスが行った「イマーキュレート・レセプション」と呼ばれる伝説的プレイ(詳細後述)により逆転勝利を収める(最終スコア13-7)。しかしAFC優勝戦ではパーフェクトシーズンを達成したマイアミ・ドルフィンズに17-21で敗れてスーパーボウル出場は果たせなかった。 1973年には10勝4敗でワイルドカードでプレーオフ出場を果たしたがオークランド・レイダースに14-33で敗れた。 1974年から1979年までチームは6年連続地区優勝を果たした。1974年のプレーオフではバッファロー・ビルズを32-14、オークランド・レイダースを24-13で破り第9回スーパーボウルに出場した。スティールカーテンと呼ばれたディフェンスがミネソタ・バイキングスの攻撃を完全に封じ16-6でスーパーボウル初制覇を果たした。1975年には11連勝を含み12勝2敗でシーズンを終え、プレーオフではボルチモア・コルツを28-10、オークランド・レイダースを16-10で破り第10回スーパーボウルでダラス・カウボーイズを21-17で破りスーパーボウル史上、グリーンベイ・パッカーズ、マイアミ・ドルフィンズに次いで連覇を達成した3チーム目となった。 1976年は開幕から1勝4敗と苦しんだがその後9連勝して10勝4敗でシーズンを終えた。ボルチモア・コルツを40-14で破ったがフランコ・ハリス、ロッキー・ブライアーが負傷欠場したオークランド・レイダース戦を7-24で落とした。この年のレギュラーシーズン、リン・スワンが脳震盪を起こしたプレーについてレイダースのジョージ・アトキンソンを訴えた。1977年は9勝5敗で終えプレーオフ1回戦でデンバー・ブロンコスに21-34で敗れた。 1978年にはNFLトップの14勝2敗でシーズンを終え、デンバー・ブロンコスを33-10、ヒューストン・オイラーズ戦では9回のターンオーバーを奪い34-5で勝利、第13回スーパーボウルでダラス・カウボーイズを35-31で破りスーパーボウルを3回優勝した最初のチームとなった。1979年には12勝4敗でシーズンを終え、プレーオフではマイアミ・ドルフィンズに34-14、ヒューストン・オイラーズを27-13で、ロサンゼルス・ラムズとの第14回スーパーボウルでは試合終盤まで相手QBヴィンス・フェラガモの活躍でリードを許したがジョン・ストールワースへの2本のTDパスで逆転31-19で勝利、4回目のスーパーボウルを制した。現在のところ、スーパーボウル連覇を2度達成した唯一のチームとなっている。 1980年は9勝7敗、1981年は8勝8敗でプレーオフ出場を逃した。ストライキでシーズンが短縮された1982年は6勝3敗でプレーオフに出場したがサンディエゴ・チャージャーズに28-31で敗れた。この試合の後、スリー・リバース・スタジアムでは10シーズンの間、プレーオフから遠ざかることとなった。1983年は10勝6敗で地区優勝を果たしたがプレーオフではロサンゼルス・レイダースに10-38で敗れた。1984年も2年連続地区優勝を果たしデンバー・ブロンコスを24-17で破りAFCチャンピオンシップゲームに進出したがこの年シーズンタッチダウンパス記録を更新したダン・マリーノのマイアミ・ドルフィンズに28-45で敗れた。 1985年には7勝9敗と14年ぶりに負け越し、1986年には6勝10敗に終わった。ストライキで短縮された1987年は最後の2試合を落とし8勝7敗でプレーオフを逃した。1988年にはここ19シーズンで最悪の5勝11敗に終わり、1989年は開幕2試合を0-51、10-41と大差で敗れたが若いチームはここから持ち直し9勝7敗でシーズンを終え、ワイルドカードプレーオフで26-23とヒューストン・オイラーズを破り、デンバー・ブロンコスとのディビジョナル・プレーオフは23-24とわずか1点差の好ゲームを演じた。1990年には9勝7敗でAFC中地区3チームが並んだが地区内成績が2勝4敗だったチームはプレーオフ出場を逃した。1991年を7勝9敗で終えた後、23シーズンに渡ってヘッドコーチを務めたチャック・ノールが辞任を発表し後任にはビル・カウアーが就任することとなった。
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