スルピキウス法
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政治的駆け引きからマリウスは民衆派議員で、非道な人物との評判であった護民官プブリウス・スルピキウス・ルフスと手を結んでいた。スルピキウスは敵対者から「スルピキウスを上回る悪党は、明日のスルピキウスに他ならない」とまで言われるほど、様々な悪徳を行ったという。 マリウスの子飼いであったスルピキウスは兵士と資金を集め、スッラが再び前線へ視察へ向かった隙に3000名の兵士を率いて反乱を起こした。マリウスは元老院を占拠すると、ポントス王ミトリダテス6世討伐(ミトリダテス戦争)への指揮権を自らに譲渡するスルピキウス法を制定させた。マリウスに従えられた元老院はスッラに使者を送ったが、スッラは兵士達を説得して使者を殺害させた。 マリウスはローマで閥族派議員に対する粛清を行い、腹心スルピキウスを使って元老院を支配下に収めていた。追い詰められつつあったスッラはローマ進軍という暴挙に及ぶ決断を下した。スッラの元には再三に亘って禁じられているローマへの行軍と止めるよう、元老院からの勧告が出された。しかしスッラはこれに従わず、説得を行ったブルートゥスとセルウィリウスという名の法務官からファスケスを奪って叩き壊し、元老院議員用のトガを剥ぎ取ってローマに送り返している。元老院政治の一つの象徴でもあるファスケスへの侮蔑は元老院を大いに失望させた。
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スルピキウス法
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「ガイウス・マリウス」の記事における「スルピキウス法」の解説
詳細は「ミトリダテス戦争」を参照 紀元前88年、ミトリダテス6世が遂に挙兵してギリシャ諸都市にローマへの反乱を促した(第一次ミトリダテス戦争)。ミトリダテス討伐に誰を司令官に推挙するかで元老院は紛糾したが、閥族派はスッラを候補に立てた。対する民衆派はマリウスを候補に担ぎ上げ、護民官プブリウス・スルピキウス・ルフス(英語版)がサトゥルニヌスの如く閥族派と激しい争いを繰り広げた。マリウスも意気を取り戻したのか、屋敷の外に出て体を鍛え直して運動競技に汗を流し、剣術や馬術を軽やかにこなすなど身体の復調を見せた。民衆の支持が老いたマリウスに想像より傾いたので選挙は縺れたが、それでも最終的にはスッラが執政官に選出された。 サトゥルニヌスより更に手段を選ばない急進派であったスルピキウスは結果を認めず、騎士階級の政治家600名と「反元老隊」と名乗るマリウス派の私兵集団を作って実力行使で抵抗した。スッラは同僚執政官クィントゥス・ポンペイウス・ルフスと公務執行の一時停止を宣言したが、その集会に武装した反元老隊が乱入してポンペイウスの息子を殺害した。スッラとポンペイウスは集会から逃げ出したが、スッラは途中でスルピキウスに捕らえられた。スッラはマリウスに助けを求め、公務執行解除と引き換えに助命された。結果、逃亡したポンペイウスを執政官から罷免し、投降したスッラもマリウスを執政官代理として権限を委任するスルピキウス法が可決された。 晴れてスッラを失脚させて表舞台に復帰したマリウスだったが、スッラは民衆派に抑えられたローマを脱出して遠征軍の掌握に成功した。とはいえ元老院とローマが抑えられていてはスッラ軍は賊軍であり、かつ既にこの時代にはローマは不可侵の土地とする慣習が成立していた。だがスッラは元老院の正常化を大義名分に元老院の進軍を思い留まる様に求める使者のファスケスを叩き折り、6個軍団を率いて首都ローマへ侵攻する暴挙を起こした。警備用の僅かな兵士しかいないローマに取り残された元老院は完全に浮き足立ち、マリウスはローマ住民から市民兵を集めてスッラが率いる軍団兵と対峙した。
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