スティーブ・ロスの時代
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「ワーナー・ブラザース」の記事における「スティーブ・ロスの時代」の解説
2年後の1969年、資金難のハイマン兄弟はスティーブ・ロス(Steve Ross)が率いる複合企業群「キニー・ナショナル・カンパニー(Kinney National Company)」の買収提案を受け容れた。 1940年代後半に設立されたキニー社は当初はニューアークのキニー通りにある駐車場に過ぎなかったが、葬儀場会社により買収合併されて以降レンタカー、オフィス清掃、建設業、芸能エージェンシーと手を広げ巨大コングロマリットを形成、1962年に株式を一般に公開した。 1967年にロスはハリウッドの芸能エンジェシー大手だったアシュリー・フェイマス(Ashley-Famous)を買収した。ア社のテッド・アシュリーは芸能ビジネスよりケーブルテレビ事業が儲かると考え、映像事業へ転進するための資金力あるパートナーを探していた。アシュリーは資金難にあったワーナー・ブラザース=セブン・アーツを買収するアイデアをロスへ打診した。ワーナーはキ社に買収されて以降アシュリーが経営者となり、社名は再度ワーナー・ブラザース(Warner Bros. Pictures)に戻った。1972年にキ社は葬儀場や駐車場の分野を新会社としてスピンオフし、映像、音楽の娯楽産業を管轄するグループ本社は社名をワーナーにちなんでワーナー・コミュニケーションズに変更した。 ロスが来た時にワーナーは映画ではなく傘下のレコード会社が成長株とされていた。アーメット・アーティガンはロスに会い協力すると決めた。モー・オースティン、ジャック・ホルツマン(英語版)、デビッド・ゲフィンがワーナーのトップだった。レーベルの買収などで悪評を残したがワーナーはCBSから首位を奪いとった。 斜陽の映画産業でワーナー・ブラザースは低予算で製作本数を減らした体制を選択。また集客力があるスタープロとの提携を進めた。クリント・イーストウッド、バーブラ・ストライサンドはその代表格。ユニバーサルの手中にあったスティーヴン・スピルバーグにも接近。MCAのルー・ワッサーマンと綱引きを演じた。映画産業ではいち早くケーブルテレビに着目しアメックスと合弁事業を展開、巨額な資金を投じた。 ロスはコングロマリットの総帥として映像、音楽業界に影響を及ぼした。ワーナー・コミュニケーションズがM&Aによりあらゆる分野に利権を持ち、買収を重ねた。ビデオゲーム会社アタリを、さらに遊園地経営会社シックスフラッグスを買収、アタリは傘下に入って以降、ワーナー・コミュニケーションズの利益のかなりの部分を占めるグループの稼ぎ頭になった。しかし、ゲーム市場の崩壊(日本で言ういわゆる「アタリショック」)が起こると、ワーナー・コミュニケーションズ自体の株価も低落した。 これにより1984年にはルパード・マードックがワーナー株を大量に買い、最終的にマードックの株をワーナーが引き取り決着するまで互いの攻防も世間を賑わせた。クリス・クラフト・インダストリーズと株式交換、マードックを退けたが、今度はワーナーの株25%を得てパートナーとなったハーバート・シーゲルとの仲が難しくなった。アメックスと合弁事業で出資していたMTVとショウタイムはロスの自慢だったが、シーゲルはこの金の卵をロスから手放せさせた(ちなみにこれらを買収したバイアコム帝国は躍進した)。ロスとシーゲル両者の争いは五年間に及んだ。 老舗のワーナーは良くも悪くもロスにより塗り替えられた。ロスは人当たりがよく情熱的で腹の太い人物とされ、ワーナー幹部たちに自由を与え、それにより取締役会はファミリーとしての結束が形成された。ロスの個性が、ワーナーの企業風土になり、プライベートジェットをスターに気軽に使わせる等、他社との差別化に成功して躍進の一因になった。スピルバーグは父よりも父であって欲しい人物としており、『シンドラーのリスト』では主人公の人物像にロスの姿を投影した。 ロスの憧れはウィリアム・ペイリー(en:William S. Paley)だった。彼のように上流階級に入り現代美術や音楽の文化的な保護者になるには、同じユダヤ系でもロスの出身は低く、前職(葬儀場のディレクター)の評価は低く、また教養もなかったが、人柄が好かれロックやアクション映画のスターを友人として扱った。しかし、彼の桁外れの贈り物が彼のポケットから出たのか、会社の金庫から出たのかは疑問が残るし、会社が株主のものであるという意識が薄かったとも指摘される。側近はワーナーを手に入れた彼をハーシーのチョコレートを見つけたガキ大将が気前よく手下に与える様子になぞらえている。東海岸のマフィアによる不正蓄財とキニー社との繋がりはタイムとの合併時に上品なタイムが懸念するなど、ロス王国に影を落とした。 1971年から1987年末まで、コロンビア ピクチャーズとの共同事業により国際配給をおこなっており、いくつかの国では同連合は他社の映画も配給していた。1988年以降ウォルト・ディズニー・ピクチャーズと組み、1993年にディズニーが独自にブエナ・ビスタ・インターナショナルを設立するまで続いた。
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