ジロ・デ・イタリア総合優勝
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「ヴィンチェンツォ・ニバリ」の記事における「ジロ・デ・イタリア総合優勝」の解説
2013年、アスタナへ移籍。ティレーノ〜アドリアティコではクリス・フルームとアルベルト・コンタドールを抑え総合2連覇を達成。好調のまま迎えたジロ・デ・イタリアではブラッドリー・ウィギンスやカデル・エヴァンスなどとともに総合優勝候補に推された。第7ステージでライバルのウィギンスが1分24秒を失うも、翌日の個人タイムトライアルでウィギンスはステージ優勝したアレックス・ダウセットに10秒遅れのステージ2位に入る。対するニバリはダウセットから21秒遅れ、ウィギンスから11秒遅れに留め、ここで総合首位に浮上する。ところがウィギンスは第12ステージで3分17秒遅れてしまい、完全に総合争いから脱落。ウィギンスは翌日出走しなかった。これにより総合争いのライバルはエヴァンスとウィギンスのアシストであったリゴベルト・ウランとなるも、第14ステージでライバルを引き離しステージ2位に入ったことで総合2位エヴァンスへのリードは1分26秒に拡大。そして第18ステージの20.6kmの山岳個人TTでステージ2位のサムエル・サンチェスに58秒の差をつけ圧勝。ここでエヴァンスは総合で4分2秒遅れ、ウランは4分12秒遅れと事実上ここで総合優勝を確定させたも同然の差をつける。トレチーメ・ディ・ラヴァレードへの頂上フィニッシュとなった第20ステージでも残り3kmから独走し勝利。自身初のジロ総合優勝を果たした。
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ジロ・デ・イタリア総合優勝
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「ダミアーノ・クネゴ」の記事における「ジロ・デ・イタリア総合優勝」の解説
2002年にサエコでプロデビューしたが、もっぱらアシストとして働き、2003年まで特別に目立った成績は残していなかった。 しかし2004年にグランツールの一つであるジロ・デ・イタリアでステージ4勝をあげる大活躍を見せ、チームのエースであったジルベルト・シモーニを押しのけて総合優勝を成し遂げる。さらにシーズン終盤の ジロ・ディ・ロンバルディアでも優勝。ジャパンカップでも2位に入り、2004年 UCI・ロードワールドランキングスで1位に輝いた。 2005年からは サエコとランプレの合併に伴い出来た新チーム、ランプレ・カッフィータに移る。ジロ・デ・イタリアへの調整も兼ねて出場した直前のツール・ド・ロマンディでは山岳ステージで優勝し総合2位に入るなど好調かと思われたが、肝心のジロでは序盤から調子が上がらず、結局シモーニのアシストに回ることになる。さらに追い打ちをかけるように伝染性単核球症に罹患。シーズン中盤を棒に振ることになってしまった。しかしシーズン終盤にかけて調子を取り戻し、ジャパンカップでも優勝を果たした。 2006年は不仲を噂されたジルベルト・シモーニがサウニエルデュバルへ移籍したことに伴いチームのエースを務めることになり、ジロ・デ・イタリアではシモーニに続く総合4位、初出場のツール・ド・フランスではラルプ・デュエズの山頂ゴールが設定された第15ステージでフランク・シュレクと激しいステージ優勝争いを繰り広げて2位に食い込むなどの活躍を見せ、新人賞のマイヨ・ブラン を獲得した。
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ジロ・デ・イタリア総合優勝
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「ライダー・ヘシェダル」の記事における「ジロ・デ・イタリア総合優勝」の解説
総合首位(第7〜第9、第14、最終) ポイント賞部門 第3位 第4ステージのチームタイムトライアルで区間優勝に貢献し、総合4位に浮上。第7ステージでは区間5位に入り、同ステージ終了後、マリア・ローザに袖を通した。第10ステージで区間優勝のホアキン・ロドリゲスに総合首位の座を明け渡したが、以後ロドリゲスとマリア・ローザ争いを演じた。大会初めての山岳区間となった第14ステージで、ロドリゲスに26秒の差をつけ総合首位を奪回したものの、翌第15ステージでは逆にロドリゲスについていけず、わずか1日で総合首位の座を開け渡した。その後、第19ステージ終了後に17秒差まで縮めたが、翌20ステージでは終盤になってロドリゲスに引き離され、この時点での総合タイム差は31秒だった。しかし、最終第21ステージの個人タイムトライアルでは、34分15秒で走破し、区間6位の好成績でフィニッシュ。対するロドリゲスは35分02秒の区間26位に終わったため、総合16秒の差をつけ、カナダ国籍者として初めてグランツールで総合優勝を果たした。
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ジロ・デ・イタリア総合優勝
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「アルベルト・コンタドール」の記事における「ジロ・デ・イタリア総合優勝」の解説
ジロ・デ・イタリアに4年振りに出場。第5ステージで早くもマリア・ローザを獲得。しかし第13ステージで残り3.1~2km地点の落車に巻き込まれ、ファビオ・アルにマリア・ローザを奪われてしまう。翌日の第14ステージの長距離(59.4km)個人タイムトライアルでアルからたった1日でマリア・ローザを奪取。第19,20ステージではアルのステージ優勝を許すも、膨大なリードを守り抜き、アルに1分53秒差をつけて自身2度目のジロ総合優勝を果たした。 ルート・デュ・スュド 総合優勝 ツール・ド・フランスダブルツールを目指して臨んだツール・ド・フランスでは、第2ステージでチーム総出の横風分断作戦を決行。この結果、ナイロ・キンタナとヴィンチェンツォ・ニバリ、アレハンドロ・バルベルデら総合争いのライバルたちに対し約1分のリードを築く。しかし、ラ・ピエール・サン・マルタンへの頂上ゴールとなった第10ステージでステージ優勝したクリス・フルームから大きく遅れてしまう。さらに第19ステージでは二バリの独走ステージ優勝を許してしまい総合5位に後退。表彰台へのラストチャンスとなった第20ステージのラルプ・デュエズでも遅れ、総合優勝したフルームから9分48秒遅れの総合5位という結果となった。
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