ジオラマ劇場
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「ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール」の記事における「ジオラマ劇場」の解説
1821年春、ダゲールはチャールズ・ブートンと提携しジオラマ劇場の開発を始めた。ダゲールは、照明や風光明媚な効果を生み出すための専門知識を持っており、ブートンは画家としてダゲールより経験が豊富だった。しかしブートンは最終的に撤退し、ダゲールはジオラマ劇場の単独責任者としての権利を得た。 最初のジオラマ劇場は、パリにあったダゲールのスタジオに隣接して建てられ、1822年7月11日にオープンした。二つの劇場場面を備えた形式で、一つがダゲールによるもの、もう一つがブートンによるものだった。また、一方が室内を表現し、他方が風景を表現したものだったと考えられている。ダゲールは、観客のためにリアルなイリュージョンを作り出そうとした。そして単に観客を楽しませるだけでなく、畏敬の念を抱かせようとした。 ジオラマ劇場は壮大な規模だった。巨大な半透明キャンバス(幅約20m、高さ14m)の両面に絵が描かれた。これらは生き生きとした細密画で、異なる角度から照明が当てられた。そして照明の変化と共に、場面も変化した。観客は画面の裏側にある絵画を見ることとなった。効果は畏敬の念を抱かせた。「場面の印象の変化、人びとにもたらす気分の変化、そして様々な動きは、シャッターとスクリーンのシステムによって作り出された。それは描かれたイメージのそれぞれの部分を、背後から照明することが出来た。」(エスター・サルツァー) そのサイズのため画面は固定式で、場面転換の際には観客席が回転した。観客席は円筒形で、額縁状の開口部が一つ設けられており、これを通して観客は「シーン」を観るようになっていた。観客数は約350だったと考えられる。基本的に立ち見で、一部に特別席が用意された。21枚のジオラマ絵画が最初の8年の間に展示された。これらにはブートンによる「カンタベリー大聖堂のトリニティチャペル(英語版)」、「シャルトル大聖堂」、「ルーアンの都市」、「パリ郊外」、ダゲールによる「ザルネンの谷」、「ブレストの港」、「ホリールード寺院」、「ロスリン礼拝堂(英語版)」が含まれていた。 ロスリン礼拝堂(英語版)はスコットランドのエジンバラ郊外のロスリン村に15世紀に建てられ、現代では2003年のベストセラー小説で2006年に映画化された「ダヴィンチコード」の舞台として有名になった。しかし当時のロスリン礼拝堂は大火災を含むいくつかの伝説で知られていた。伝説では大聖堂に炎が出現しその威信が破滅の直前だったとされている。しかし後にそのような火事によるダメージは見ることができなくなっていた。一方で、この礼拝堂は比類のない建築の美しさで知られていた。 ダゲールはロスリン礼拝堂の両側面を理解していた。そしてこれらは彼のジオラマ絵画にとって最適の主題となった。礼拝堂にまつわる伝説は、確実に大観衆を魅了しただろうと思われる。パリに再現されたロスリン礼拝堂の内部は、1824年9月24日から1825年2月まで公開された。この場面はドアや窓から光が入ってくるように描かれた。窓には葉影も見ることができた。葉を通過した光の筋は息を呑むようだった。また、光を弱めることで雲が太陽の前を通過するシーンが描写された。 それは「絵画の力を超えている。」 (Maggi)ように思われた。タイムズ紙は展覧会の記事を載せ「完全なマジック」だと評した。 ジオラマが人気の新しいメディアとなると共に、模倣者も出現した。利益は20万フランに達したと推測される。これは2.5フランの入場料で8万人の観客が訪れた計算になる。繁栄の頂点は1820年代半ばだった。別のジオラマ劇場が、わずか4ヶ月の建築期間を経て、1823年9月ロンドンにオープンした。 ジオラマは1930年代に入るまでの数年間に栄えた。そして必然的に劇場は焼失した。ジオラマはダゲールの唯一の収入源だった。一見するとそれは悲劇的な出来事だった。しかし企業としてはもはや終焉に近付いていた時期だった。このようにして作品としてのジオラマが失われたことは、保険で支払われた金額を考慮すれば、完全に悲惨だとは言えなかった。
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