ケント王国とサセックス王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:39 UTC 版)
「オファ (マーシア王)」の記事における「ケント王国とサセックス王国」の解説
762年以降、ケント王国の政治的不安定さをオファは利用したものと見られる。ケント王国には古くから共同王制の伝統があり、東と西のケントを別々の王が治めていたが、通常はどちらか1人の王が支配的であった。762年以前のケントにはエゼルベルト2世 (Æthelbert II of Kent) とエドベルト1世 (Eadbert I of Kent) という二人の王がおり、エドベルト1世の息子エルドウルフ (Eardwulf) も王とする記録がある。だが762年にエゼルベルトが死去すると、エドベルトとエルドウルフへの言及もこの年が最後となり、翌年からの2年間はシゲレド (Sigered of Kent) 、イアンモンド (Eanmund of Kent) 、ヘアベルト (Heaberht of Kent) らをケント王とする資料がみられる。例えば764年、オファは自らの名の下にロチェスター所領を勅許したが、このとき証人欄にはケント王としてヘアベルトの名が記載されている。この他、765年にオファが承認した勅許状にはヘアベルトと共にエグバート2世 (Ecgberht II of Kent) もケント王として名を連ねている。このことからオファがケントに影響力を持っていたことは明白で、ヘアベルトはオファの傀儡として王位に据えられたとする説もある。ただし、オファがその後もケントに対して宗主権を保持し続けていたかについては歴史家の意見が分かれる。あるときオファは「主君が割り当てた土地を、主君が証人となることなしに他の者に委ねるのは誤りである」という理由で、エグバートの勅許を取り消したことが知られているが、エグバートが最初に勅許を出した日付は不明であり、オファがそれを取り消した日付も不明である。オファが764年から少なくとも776年までケントの宗主権を保持していた可能性はある。765年から776年までの期間オファがケント王国に直接関与していた証拠資料は774年にケントの土地許与を記録した2通の勅許状など限られており、その勅許状自体も信憑性が疑問視されていることから、776年以前にケントに介入していたのは764年から765年のみの可能性がある。 『アングロサクソン年代記』774年の項には「マーシア人とケント人がオットフォード(英語版)で戦った」という記述あるが、その戦闘の結末については記されていない。伝統的にはマーシアが勝利したと解釈されているが、785年まではオファがケントにおける王権を確立したという証拠はない。また784年の勅許状にはケント王エルムンド(英語版)の名前のみが記載されていることから、オットフォードで敗れたのはマーシアの方であったことが示唆される。紛争の原因については明らかでない。もしオファが776年より前からケントを支配していたのであれば、オットフォードの戦いはマーシア支配に対する反乱であった可能性もある。しかしながら、エルムンドの名が歴史記録上に現れるのはこれ一度きりで、785年から789年までの一連の勅許状はオファにより発行されたものであることからもその権威は明らかである。この期間オファはケントを「マーシア王国の一州」として扱っており、その行動は、通常の支配関係を超えて、ケントの併合や地方の王族の排除にまで及んだものと見られる。785年以降、ある歴史家の言葉を借りれば、「オファはケント王らの大君主ではなく、ライバルであった」。マーシアの支配はオファが死去する796年まで続き、その後エドベルト3世(英語版)が一時的ではあるがケントの独立を取り戻すことに成功した。 ケント王エルムンドはウェセックス王エグバートの父親とされ、オファが780年代中頃にケントへ干渉したことがエグバートのフランク王国への亡命(追放)へとつながった可能性もある。『年代記』によれば、エグバートが825年にケントを襲撃した際、南東部の人々はエグバート側についた、なぜなら「昔彼らは誤ってエグバートの親族から引き離された人々だったからだ」。これはおそらくエルムンドへの暗示である可能性が高く、エルムンドが南東部の王国の局地的な支配権を持っていたことを意味するかもしれない。もしそうなら、オファの介入はおそらくこの関係の支配を獲得し、関連する王国の支配を引き継ぐことを意図していたと思われる。 オファのサセックス王国への関与の証拠は勅許状から出ており、ケントと同様、事態の推移について歴史家の間に統一した見解は見られない。サセックスの王たちに関係する証拠がほとんど残っていないことは、同時に複数の王が統治していたことを示している。サセックス西部の王たちはオファ治世の初期段階からその権威を認めていたとされるが、サセックス東部(ヘイスティングス周辺の地域)はそれほど容易に服従しなかった。12世紀の年代記作者ダラムのシメオン(英語版)は771年オファは「ヘイスティングスの人々」を破ったと記しており、これはオファの支配がサセックス国全体に広がったことの記録と言えるかもしれない。 しかし、この説を裏付ける勅許状の信憑性については疑念が表明されており、オファのサセックスへの直接的な関与は770-71年頃の短い期間に限られていた可能性がある。772年以降、790年頃までマーシアのサセックスへの関与を示す証拠はなく、オファがケント国と同様に780年代後半にサセックスの支配権を獲得したのかもしれない。
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