エッサネイ社時代(1915年~1916年)
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「チャールズ・チャップリンの映画作品一覧」の記事における「エッサネイ社時代(1915年~1916年)」の解説
1915年、チャップリンはエッサネイ社に移籍し、15本の映画に監督・主演した。特に記載のない限り、すべての作品はフィルムの長さが2リールである。 公開年月日邦題 原題 クレジット備考監督脚本製作作曲役名1915年2月1日 チャップリンの役者 His New Job Yes Yes No No 映画のエキストラ(小さな放浪者) 1915年2月15日 アルコール夜通し転宅 A Night Out Yes Yes No No 陽気に騒ぐ男(小さな放浪者) 1915年3月11日 チャップリンの拳闘 The Champion Yes Yes No No 大望を抱いた拳闘家(小さな放浪者) 別邦題は『チャップリンの珍拳闘』『チャムピオン』。 1915年3月18日 アルコール先生公園の巻 In the Park Yes Yes No No チャーリー(小さな放浪者) 1リール。別邦題は『チャップリンのいたずら』。 1915年4月1日 チャップリンの駈落 A Jitney Elopement Yes Yes No No 求婚者、偽伯爵(小さな放浪者) 別邦題は『チャップリンのローマンス』。 1915年4月11日 チャップリンの失恋 The Tramp Yes Yes No No 小さな放浪者 1915年4月29日 アルコール先生海水浴の巻 By the Sea Yes Yes No No 小さな放浪者 1リール。別邦題は『チャップリンの海水浴』。 1915年6月21日 チャップリンのお仕事 Work Yes Yes No No 壁紙張の見習い職人(小さな放浪者) 1915年7月12日 チャップリンの女装 A Woman Yes Yes No No チャーリー / 女性(小さな放浪者) 1915年8月9日 チャップリンの掃除番 The Bank Yes Yes No No 掃除番(小さな放浪者) 1915年10月4日 チャップリンの船乗り生活 Shanghaied Yes Yes No No チャーリー(小さな放浪者) 1915年11月20日 チャップリンの寄席見物 A Night in the Show Yes Yes No No ペスト氏 / ラウディ氏 別邦題は『チャップリンの芝居見物』。 1915年12月18日 チャップリンのカルメン Burlesque on Carmen Yes Yes No No ダーン・ホウザリー 別邦題は『珍カルメン』。1916年4月22日、レオ・ホワイトが追加撮影したシーンを入れて4リールに拡大した再編集版が、チャップリンの承認なしに公開された。 1916年5月27日 チャップリンの悔悟 Police Yes Yes No No 前科者(小さな放浪者) 別邦題は『チャップリンの改心』。 1918年8月11日 三つ巴事件 Triple Trouble Yes Yes No No 雑役夫(小さな放浪者) 別邦題は『チャップリンの義侠』。チャップリンがエッサネイ社を退社したあと、同社が『チャップリンの悔悟』と未完成の『生活』の数シーンに、レオ・ホワイトが監督したシーンを加えて再編集した作品。チャップリンは承諾していないが、自伝のフィルモグラフィーに含めている。
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エッサネイ社時代
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「チャールズ・チャップリン」の記事における「エッサネイ社時代」の解説
キーストン社と契約満了をもって退社が確定したチャップリンは、週給1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示してきたシカゴのエッサネイ社に移籍し、1914年12月下旬にスタジオに参加した。チャップリンはレオ・ホワイトやベン・ターピンなどの俳優を集めてグループを作り、同社2作目の『アルコール夜通し転宅』ではサンフランシスコのカフェで見つけたエドナ・パーヴァイアンスを相手役に採用した。パーヴァイアンスとは8年間に35本の映画で共演し、1917年までプライベートでも親密な関係を築いた。チャップリンはそれまで会社の製作慣習に従い、流れ作業のように映画を作り続けてきたが、この頃から慣習には従わない姿勢を打ち出し、より時間をかけて映画を作るようになった。『アルコール夜通し転宅』と次作の『チャップリンの拳闘』とでは封切り日に27日の間があり、それ以後の作品はさらに封切りの間隔が広がった。 この時期にチャップリンは小さな放浪者のキャラクターを変え始めた。キーストン社時代のキャラクターは、女性や子供をいじめたりする卑劣で残酷な役柄や、性的にいやらしい性格であるものが多かった。しかし、エッサネイ社時代になると、より穏やかでロマンティックな性格に変化した。1915年4月公開の『チャップリンの失恋』はキャラクターの変化のターニングポイントとなる作品と考えられている。この作品では放浪者がヒロインに失恋し、ラストシーンで一本道をとぼとぼと歩き去る姿が描かれている。このシーンはその後の作品でも数通りに変化させて使用された。チャップリン研究家の大野裕之は、この作品を「孤独な放浪者のロマンスというチャップリン・スタイルの芽生え」であるとしている。同年8月公開の『チャップリンの掃除番』には悲しげな結末にペーソスが加えられたが、映画史家のデイヴィッド・ロビンソン(英語版)はそれがコメディ映画の革新であるとしている。映画学者のサイモン・ルービッシュは、エッサネイ社時代のチャップリンは「小さな放浪者を定義するテーマとスタイルを見つけた」と述べている。 1915年にチャップリンの人気は爆発的に上昇し、その人気にあやかって人形や玩具などの関連商品が売られたり、新聞に漫画や詩が掲載されたり、チャップリンについての曲が作られたりした。同年7月にモーション・ピクチャー・マガジン(英語版)のジャーナリストは、チャップリンの真似をする「チャップリニティス」がアメリカ全土で広まったと書いた。チャップリンの人気は世界的に高まり、映画業界で最初の国際的なスターとなった。12月にエッサネイ社との契約が切れ、自分の価値を認識していたチャップリンは次の契約先に15万ドルのボーナスを要求した。ユニバーサル、フォックス、ヴァイタグラフ(英語版)などの映画会社からオファーを受けたが、最終的にチャップリンが選んだのは、最も高額な条件を提示してきたミューチュアル社(英語版)だった。
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