ウラルトゥ遠征とは? わかりやすく解説

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ウラルトゥ遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 19:46 UTC 版)

ティグラト・ピレセル3世」の記事における「ウラルトゥ遠征」の解説

サルドゥリ2世統治下のウラルトゥ王国覇権は、小アジア西部イランシリアにまで及んでいた。ティグラト・ピレセル3世紀元前745年のうちにイラン高原西部部族攻撃してこれを服属させ、その後アッシリア対す同盟結んでいたウラルトゥ王国並びにシリア諸王国と戦い紀元前743年ウラルトゥ軍を破ったティグラト・ピレセル3世ウラルトゥにおいて頑健な馬を手に入れ、これを戦車部隊用いた紀元前737年736年ティグラト・ピレセル3世は再びイラン目指した。紀元前736年ウラルトゥ王国首都ヴァン攻撃してこれを陥落させて領土編入したほか、彼はメディアパルティアペルシア征服しイラン西部大半占領した

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ウラルトゥ遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:11 UTC 版)

サルゴン2世」の記事における「ウラルトゥ遠征」の解説

ウラルトゥ・アッシリア戦争」も参照715年ウラルトゥ多数の敵によって極めて弱体化していた。まず、ウラルトゥルサ1世キンメリア人コーカサス中心部インド・ヨーロッパ語使用する遊牧民)に対す遠征では敗れ最高司令官捕虜となり、王は戦場から逃亡するという惨憺たる結果終わったキンメリア人はこの勝利加えてウラルトゥ攻撃し王国奥深く南東オルーミーイェ湖ウルミヤ湖)まで侵入した同年オルーミーイェ湖周囲居住しウラルトゥ臣属していたマンナエ人ウラルトゥから離反し反乱起こしたため、それを鎮圧する必要もあった(前716年アッシリアによる彼らへの攻撃切っ掛けとする)。 サルゴン2世は恐らく、ルサ1世キンメリア人敗北したという報せ受けてウラルトゥ弱体化したことを感じ取ったルサ1世サルゴン2世ウラルトゥ侵攻しようとしているであろうことに気付いており、恐らくマンナエ人対す勝利の後、軍の大半オルーミーイェ湖付近に残していた。これは、この湖がアッシリア国境近かったためである。ウラルトゥ以前アッシリア脅威受けていたため、南の国境は無防備な状態ではなかった。アッシリアからウラルトゥ中核地帯への最短ルートタウルス山脈のKel-i-šinの道を通るものであった。全ウラルトゥで最も重要な土地1つである聖地ムサシル(英語版)はこのルートのすぐに西に位置しており広範囲防衛体制が必要であった。この防衛体制要塞線からなっており、サルゴン2世対す攻撃の準備中、ルサ1世はゲルデソラフ(Gerdesorah)と呼ばれる新たな要塞建設命じた。ゲルデソラフは小さかったが、95×81メートル大きさ持ち戦略上重要な周囲の地形から55メートル高い丘に配置され2.5メートル厚さを持つ分厚い城壁防御用の塔が供えられていた。ゲルデソラフの弱点1つは、未だ建設作業完了しておらず、前714年7月半ば頃に建設始まったばかりであったことである。 サルゴン2世は前714年ウラルトゥ攻撃するためカルフ出立した190キロメートル離れたKel-i-šinの峠に到達するには少なくとも10日必要であった。この峠はウラルトゥに入るための最も早いであったが、サルゴン2世この道を選ばず軍を大ザブ川小ザブ川3日わたって進み大山クラー山(Kullar、位置不明)で停止した後、ケルマーンシャー経由して遠回りルートウラルトゥ攻撃することを決定した。この理由は恐らく、ウラルトゥ要塞線を恐れたではなくウラルトゥアッシリア軍はKel-i-šin峠を通って攻撃してくると見込んでいたことをサルゴン知っていたためである。さらに、アッシリア軍は主として低地地帯戦って来ており、山岳戦経験はなかった。サルゴン2世はこの山の峠からの侵入避けることで、ウラルトゥ側の経験豊富な地形での戦闘回避したサルゴン2世決断コスト要するものであった遠回りルートは軍全体複数の山を越えなければならず、長大な距離と合わさって最短距離を行くよりも遠征長期のものとした。この山道閉ざされない10月前までに作戦完了する必要があったが、時間足りなかったため、サルゴン2世ウラルトゥ及びその首都トゥシュパ(英語版)を完全に征服する計画放棄することを余儀なくされた。 サルゴン2世オルーミーイェ湖そばのギルザヌ(Gilzanu)の地に到着すると、軍営を置き次の行動検討し始めたサルゴン2世がゲルデソラフを迂回したということはウラルトゥ側にとっては元々あった防衛計画放棄しオルーミーイェ湖の西と南に新たな要塞速やかに再編成し建設しなければならないことを意味した。この時点アッシリア軍は困難で不慣れな地形通って行軍し来ており、最近征服したばかりのメディアから補給供給されてはいたが、疲労困憊していた。サルゴン2世自身記録には「兵士たち士気衰え反抗的となり、余は彼らの疲労癒すことはできず、彼らの喉の渇き潤すはなかった」とある。ルサ1世が軍を引き連れて防衛のために到着すると、サルゴン2世兵士たちは戦うことを拒否したサルゴン2世降伏退却もしないことを決定し自分身辺警護兵士たち呼び、彼らにルサ1世の軍のうち最も近い位置にいる部隊へのほとんど自殺的というべき攻撃を行わせた。この攻撃受けたウラルトゥ軍の部隊逃走しアッシリア軍はサルゴン2世個人的指導力感銘を受け、突進し王の後を追って戦ったウラルトゥ軍は撃破され退却しアッシリア軍は彼らを西向きオルーミーイェ湖遥かに超えて追撃したルサ1世は、首都防衛せずに山岳地帯逃走した。 既に敵に勝利したことと、これ以上ルサ1世追って山中入ったウラルトゥ奥地進軍した場合には自軍兵士反乱しかねないことを恐れサルゴン2世アッシリア撤退することを決断した。この帰途においてアッシリア軍はゲルデソラフを破壊し(この時点では恐らくゲルデソラフには基幹要員英語版)のみが残されていた)、さらにムサシル市を占領し略奪した。この聖なる都市の略奪行った公的な理由は、その支配者ウルザナ(Urzana)がアッシリア軍を裏切ったことであったが、真の理由は恐らく経済的なものであった。ムサシルの大神殿ハルディ英語版神殿ウラルトゥ戦争の神)は前3千年紀から崇拝集めており、何世紀にもわたって奉納寄付受けていた。サルゴン2世はこの神殿略奪とムサシルの宮殿略奪結果その他の財宝の中からおよそ10トンの銀と1トン上の金を確保したサルゴン2世碑文によればウラルトゥルサ1世はこのムサシルにおける略奪の報を受けると自殺した

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